
消えた過去と夜中の足音
引っ越したばかりの部屋は、どこか埃っぽい匂いがした。畳の新しい匂いと、前の住人の生活臭が混ざり合って、むわりと鼻の奥にまとわりつく。ああ、嫌だわ。こんなところで新しい生活なんて、本当に憂鬱。
この歳になって、また知らない土地で、知らない人たちに囲まれて暮らすなんて。ましてや、私は「過去の記憶喪失で誰も信用できない」人間なのよ。誰が親切ぶって近づいてきても、裏があるんじゃないかって疑ってしまう。前の私を知らない人たちなんて、もっと信用できないわ。だって、彼らが私に何を話しても、それが本当のことなのか、私には確かめようがないんだもの。
隣の奥さんがわざわざお赤飯を炊いてくれたけれど、正直、気持ちが悪かった。このお米、どこで買ったのかしら。毒でも入ってやしないかしら。そんなことまで考えてしまう自分が嫌になるけれど、仕方ないじゃない。記憶がないんだもの。自分すら信用できないんだから、他人なんて論外よ。
夜中、突然、ピンポーンとインターホンの音が鳴り響いた。心臓がドクンと跳ねて、胃のあたりがむかむかする。こんな時間に一体誰よ。このマンションはオートロックだっていうのに。まさか、また私の過去を探ってる輩かしら? それとも、前の住人の知り合いが間違えて来たのかしら。どちらにしても、気味が悪い。
ゆっくりと、足音を忍ばせるようにインターホンまで近づく。ああ、また膝が軋むわ。この歳になると、ちょっとした動きでも身体にくるのよね。カメラを覗くと、誰もいない。真っ暗な廊下が、不気味に沈黙しているだけ。
なのに、その直後よ。ギシッ、と部屋の奥から小さな音がした気がしたの。気のせい? いや、違う。確かに、今、何か聞こえた。まるで、誰かがゆっくりと床を歩くような、重たい音。背筋に冷たいものが走る。まさか、部屋に誰かいる? そんな馬鹿な。鍵は閉めたはずよ。二重に、ちゃんと確認したはずだわ。でも、何が本当で何が嘘なのか、私には分からない。私の記憶なんて、穴だらけなんだから。本当に、「過去の記憶喪失で誰も信用できない」私が、こんな状況で誰を信じればいいのよ。
夜が深まるにつれて、物音は激しくなった。今度はハッキリと、リビングの方から何かが引きずられるような音がする。ガタッ、と何かが倒れる音も。脂汗が額ににじみ出て、掌がべっとりと湿る。息が詰まるような気がして、喉がカラカラに乾く。
一体、何が起きているの? 私の周りで、何が?
ふと、昔の友人の顔が脳裏をよぎった気がした。誰だったかしら? そうよ、あの人。でも、その友人は確か、もうずっと前に……。いや、待って。私が覚えている「あの人」の記憶は、本当に現実のことだったのかしら? 私の記憶は曖昧で、自分でも何が本当なのか分からない。
先日、久しぶりに連絡を取ってみた友人は、みんな元気だと言っていた。私のことを心配してくれて、何でもないのに「元気にしてる?」と声をかけてくれた。じゃあ、今、この部屋で不審な音を立てているのは、誰なの?
まさか、私、頭がおかしくなっちゃったのかしら。いや、そんなはずは。でも、記憶がないから、何が正常で何が異常かも分からない。誰も教えてくれないし、誰も信用できないんだから。こんな状況で、どうやって自分を保てばいいのよ。
明け方近くになって、ようやく物音はぴたりと止んだ。私はベッドの上で、凍り付いたように身動きもせずにいた。身体のあちこちが痛い。特に腰が重くて、もう起き上がれそうにない。
日が昇り、部屋に光が差し込むと、昨夜の恐怖は少し薄れた。昨日の夜、私を怯えさせたものは何だったのか。
ふと、本棚に並んだ雑誌や、テレビで見た心霊特集の映像が頭をよぎった。事故物件、夜中の怪奇現象、過去の怨念……。
ああ、そうか。
きっと、私の頭の中で、そういった「知らない記憶」と、現実が混ざり合っていただけなのね。メディアから得た情報が、まるで自分の体験のように錯覚されて、それが現実の物音と結びついて、こんな騒ぎになっていたんだわ。
虚脱感が身体を襲う。どっと疲れて、もう何も考えたくない。結局、私の頭の中の出来事。夜中のインターホンも、不審な物音も、全ては「自分の中に眠る過去の恐怖」から来るものだった。
でも、じゃあ、その「過去の恐怖」って一体何だったの? 私は何を忘れているの?
それを誰に聞けばいいの? 誰に尋ねても、本当のことを教えてくれるとは思えない。だって、私は「過去の記憶喪失で誰も信用できない」んだから。結局、この不安は、消えることはないのね。