
参ったな、まただ。こんな真夜中に、よりによって公衆トイレ。
疲労と、このどうにもならない生理的な不快感で、ただでさえ気分が悪いのに。
個室のドアを閉めて、腰を下ろした瞬間、背筋にぞわっと嫌なものが這い上がった。
――誰かに見られている。
錯覚じゃない、これは確信だ。
背中がじっとりと湿る。嫌な汗が肌に張り付く感覚。まるで粘液を塗られたみたいで、下着がまとわりつく。ああ、この「誰かに見られている恐怖で背中汗」が、本当にうんざりする。もう慣れっこになったはずなのに、毎回こうだ。
用を足し終えて、フラフラと個室を出た。外の空間は、ひんやりと冷たい。壁の蛍光灯は古びていて、光量が足りない。薄暗い中に、古いタイル張りの壁がぼんやりと浮かんでいる。
鏡に映る自分の顔を確認しようと、洗面台に向かう。その途中、視線が突き刺さる。
今度は、はっきりと感じた。鏡の奥、いや、鏡に映る自分の背後から。
思わず、がばっと振り返る。
誰もいない。
はず、なのに。
薄暗い照明が届かない隅っこに、大きな黒い塊が見える。あれは何だ?
じっと目を凝らすと、それはまるで、黒い鏡面のように光を反射していた。いや、鏡ではなく、何か物体だ。その物体が、微動だにせず、私を凝視しているように感じられる。
全身の毛穴という毛穴が開きっぱなしになったみたいに、肌が粟立っていく。背中を流れる汗は、もう恐怖で冷え切っている。服が張り付いて気持ち悪い。この「誰かに見られている恐怖で背中汗」、本当に勘弁してほしい。
「…誰か、いるの?」
声に出してみたが、掠れていて、まるで自分の声じゃないみたいだ。
返事はない。
ただ、換気扇の低い唸り声と、どこかから聞こえるポツン、ポツンという水滴の音だけが、耳の中でやけに大きく響く。
薄暗闇に慣れた目で、もう一度黒い塊を見る。
白いものが、見えるような気がした。
いや、違う。影が、変な形に歪んでいるだけだ。疲れているんだ、私は。
最近、ろくに眠れていない。神経が過敏になっているだけ。そう、自分に言い聞かせる。
でも、その白い影のようなものが、まるで真っ白な着物をまとった女の人が、壁際に直立不動で立っているように見えてくる。
その姿が、じっと私を見据えている。
ぞわり、と全身に鳥肌が立つ。寒い。
背中を伝う汗が、今度はべっとりと肌に張り付いて、鳥肌と混じり合って最悪の感触だ。この「誰かに見られている恐怖で背中汗」は、本当に人を追い詰める。
息が詰まる。心臓がドクドクと、耳の奥で激しく鳴っている。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間、ガチャン、と。
唐突に、トイレの入り口のドアが開いた。
眩しい光が差し込み、反射的に目を細める。
そして、その光の中に、先ほど幻視したはずの、白い着物の女性が立っていた。
全身が凍り付く。
「あら、すみませんね。休憩してたら、お客さんがいらっしゃったとは」
女性は、はにかむように微笑んだ。
その手には、モップの柄と、ポリッシャーのコード。足元には、黒いゴミ袋と、清掃用具の入ったバケツが積み重ねてある。
あ、あれが。
あの、壁際で私を凝視していた「黒い鏡面」だったのか。
真っ白な清掃員の制服に、黒いゴミ袋や工具類が重なって、薄暗闇の中でそう見えただけ。
女性は、入り口の脇に立てかけてあった「深夜清掃中」と書かれた看板を指差した。
「この時間帯は人通りも少ないんで、まとめて済ませちゃうんですよ。でも、休憩中に壁際でボーっとしてたのは失敗でしたね。まさか、そんな風に見えるなんて」
彼女の言葉に、全身から力が抜けていく。
ああ、そうか。
私は、ただの清掃員のおばちゃんに、恐怖していたのか。
確かに、彼女がいた場所は、奥まった壁際で、死角になっていて、よく見えなかった。
「いえ、こちらこそ…」
情けない声しか出ない。
脱力感と、安堵。
でも、背中の汗は、まだ止まらない。
この「誰かに見られている恐怖で背中汗」は、今夜も私の体に、べっとりと張り付いて離れてはくれない。
どうやら、もう少しこの神経質さと付き合っていくしかなさそうだ。
私は、清掃員のおばちゃんに小さく頭を下げて、重い足取りでトイレを後にした。
真夜中の冷たい風が、汗をかいた背中に、一層ひんやりとまとわりついた。