
深夜2時30分。オフィスは底冷えする静寂に包まれている。蛍光灯の明かりは隅々まで届かず、壁の向こうに広がる暗闇が、まるで巨大な口を開けているようだ。俺は田村。この時間まで残って、社内の備品点検なんていう地味な仕事を押し付けられている、ただのしがないサラリーマンだ。
最悪なことに、数時間前から視界が異常に霞んできている。目の奥がズキズキと痛み、視覚が、こう……膜を張られたみたいに、どんどんぼやけていく。光と影の境目が曖昧で、物の輪郭が溶けていくようだ。目の前にあるはずのファイル棚が、歪んだ影の塊にしか見えない。なんでこんな時に限って、こんな症状が出るんだ。まさか、俺、ついに過労でぶっ倒れるのか?いや、それとも、もっと悪い病気か?そんなことを考えながら、俺は冷や汗をかきながら通路を進んでいた。一歩踏み出すたびに、足元がおぼつかない。本当に勘弁してほしい。
その時だ。
突然、オフィス全体が、一瞬、完全にブラックアウトした。網膜の裏で、パチッと火花が散ったような錯覚。俺の目に、元々あったわずかな光すらも、完全に奪われた。視界がゼロになる。真っ暗、というより、目の前が真っ白になったような、形容しがたい不快感。吐き気が込み上げてくる。
「うおっ!」
思わず声が出た。体が前のめりになり、慌てて壁に手をつく。ヒヤリとした石膏ボードの感触が、少しだけ現実に引き戻してくれた。
数秒後、その漆黒の闇の奥から、チカッ、チカッと、ごく微弱な光が点滅し始めた。同時に、遠くから「ズズズ……」という、どこか重く、耳障りな振動音が聞こえてくる。まるで、何かの機械が内部で軋んでいるような、不快な音だ。
「電気が……落ちたのか?」
喉がカラカラに乾き、唾を飲み込むのも億劫だ。心臓がドクドクと不規則なリズムを刻む。なんでこんな時に停電なんだ。ただでさえ目が見えにくいのに。視界のせいで、恐怖が倍増する。足元がまるで水の上を歩いているみたいで、全身のバランスが取れない。
異常な静寂と、あの不快な振動音、そして暗闇の中でチカチカと瞬く微弱な光が、神経を逆撫でする。体にまとわりつくような重い空気。それが恐怖心を煽り、全身の毛穴がキュッと引き締まるのが分かった。胃のあたりがぞわぞわと気持ち悪い。視界がぼやけているせいか、光の点滅がまるで誰かが瞬きをしているようにも見えてくる。
「まさか……まさか、何か、不吉なものが近づいているのか?」
俺の脳裏には、幽霊だとか、得体の知れない怪物がオフィスを徘徊しているだとか、そんな妄想ばかりが過る。いや、ありえない。こんな合理的で無機質な空間に、そんなものがいるわけない。でも、この視界の不調が、俺の判断力を著しく鈍らせている。思考がまとまらない。目の前がぐにゃぐにゃと歪む。頼むから、早く元に戻ってくれ。
それから数分後。微弱な光と、あの不快な「ズズズ……」という振動音に引かれるように、俺はゆっくりと、足元を探るようにして光源へと近づいた。視界が定まらないため、どこに何があるのか全く分からない。手で壁を伝い、デスクの角に脛をぶつけながら、少しずつ。あの音も、光も、どうやらオフィスの一番奥、普段は誰も使わないような備品置き場の方から来ているようだ。
「……ッ、なんだ、これ……」
やっとのことで辿り着いたそこにあったのは、埃まみれの古びたプリンターだった。普段は他の備品棚の影に隠れて、ほとんど誰も気づかないような場所。停電で真っ暗になったからこそ、その液晶画面の微弱な点滅と、内部から漏れる不快な軋み音が、かえって目立っていたのだ。
プリンターの液晶画面が、チカチカと点滅している。ぼやけた視界の中で、どうにか文字が読み取れた。「インク……補充……必要……」と、不鮮明なゴシック体で表示されている。
なんだこれ、と俺は脱力した。故障していたのは印刷機能だけで、待機電力は生きていたのか。それが、深夜の温度変化か何かで、古い基盤が誤作動を起こし、突然インク警告を始めたのだろう。あの「ズズズ……」という音は、インクカートリッジを認識しようと、内部のメカが空回りしていた音だったんだ。
全身から、緊張の糸がプツリと切れる音がした。安堵と同時に、どっと疲労感が押し寄せる。同時に、自分の視界の不調への怒りがふつふつと湧いてきた。目がまともに見えていれば、こんな馬鹿げた状況にパニックになることもなかっただろうに。
俺はプリンターの電源コードを、乱暴に壁のコンセントから引っこ抜いた。チカチカと点滅していた液晶画面が消え、不快な振動音も止まる。再び、オフィスは闇と静寂に包まれた。
視界の奥はまだズキズキと痛む。早くこの点検を終わらせて、家に帰って眠りたい。そして、この訳の分からない目の不調が、明日の朝には治っていることを、心から願うばかりだ。