深夜の子供の声と謎の踏切音

チカチカと点滅する古い街灯の下、私は重たいスーツケースを引きずりながらコインロッカーの前に立っていた。旅行帰りで、明日朝一で出社だ。こんな真夜中に家まで持って帰る気力なんて、もう残っちゃいない。邪魔な荷物を預けて、さっさとシャワーを浴びて眠りたい。眠りたいのに――。

まただ。キィキィ、キャッキャッと。あの甲高い声が、耳の奥にへばりついて離れない。もうかれこれ三晩は続いている。あの声のせいで、まともに眠れてない。深夜の踏切近くで子供の声がする。どこから聞こえるのか、はっきりとはわからない。でも、確かに聞こえるのだ。こんな時間に、一体どこの子が?線路脇で遊んでいるのか?まさか。考えすぎだ、きっと。疲れているんだ。このじっとりとした湿気が肌にまとわりつく感じも、コンクリートの冷たさが足元から這い上がってくる感覚も、全部、寝不足のせいだ。はやく、この荷物を押し込んで、早くここから離れたい。

カチャリ、と錆びついたロッカーの鍵を回そうとした、その時だった。ゴオオオォォォン……!と、腹の底に響くような、重苦しい音が耳をつんざいた。鉄橋を列車が通過する時の、あの独特の振動音だ。まさか。こんな真夜中に、貨物列車でもないのに。心臓がドクリと大きく跳ねた。背筋に冷たいものが走る。あの子供の声が、さっきよりもはっきりと聞こえる気がする。まただ。キィキィ、キャッキャッと、まるで私のことを嘲笑うかのように。

まさか。あの声の主が、線路にいる証拠なんじゃないのか?こんな時間に、子供が線路に?とんでもない。そんなこと、あっていいはずがない。考えるだけで、脂汗がじっとりと額に滲んだ。喉の奥がカラカラに乾いて、唾液を飲み込むのも一苦労だ。胃の腑が掴まれたようにきゅうっと縮こまる。

あの甲高い声が、今度は踏切の鉄橋音と重なって、まるで耳元で鳴り響いているようだ。ゴオオオォォォン……キィキィ、キャッキャッ……。もう、何が現実で何が幻聴なのかもわからない。深夜の踏切近くで子供の声がする。その声のせいで、ただでさえ寝不足でぼやけた視界が、さらに歪んでいく。全身の毛穴が逆立つ。呼吸が浅く、速くなる。くそっ、あの子供の声さえなければ、こんなに気が滅入ることもないのに。脳みそが、あの声のせいで溶けてしまいそうだ。

誰もいない。この広い夜の街で、私一人だけがこの悍ましい音に取り囲まれているような気がして、たまらなくなった。もう無理だ。一刻も早く、ここから逃げ出さなければ。

私はスーツケースを放り出すようにして、来た道を必死に走った。足がもつれる。こんなに走ったのは何年ぶりだろう。脇腹が痛い。ぜえぜえと肩で息をしながら、ふと視界の端に、青いネオンが光る建物が飛び込んできた。こんなところに水族館があったのか。深夜だというのに、妙に派手な電飾だ。

「はぁ、はぁ……一体、何だったんだ……あの音は……あの子供の声は……」

ぜいぜいと荒い息を整えながら、水族館の方をぼんやりと見上げていた、その時だった。壁の向こうから、かすかに水の音が聞こえてくることに気がついた。チョロチョロ、ザワザワ。最初はただの水の音だと思った。だが、よくよく耳を澄ませてみると、そのチョロチョロという水流が、近くのコンクリート壁に当たって、まるで小さな水しぶきを上げているように聞こえる。そして、その水しぶきの音が、遠くから聞こえる踏切の音と……妙に似ているのだ。

さらに、ザワザワという水槽の濾過装置の音、魚が跳ねる音、いや、それは違う。水槽の中で、何かがぶつかり合うような、ガラスとガラスが擦れるような、甲高いキィキィ、キャッキャッという音が、聞こえる。

は、と私は息を飲んだ。

嘘だろう。

あの、三晩も私の眠りを奪い、今しがた私をパニックに陥れた、あの「深夜の踏切近くで子供の声」と「踏切の音」は……。

まさか、水槽の音だったのか?

プツリ、と何かが切れる音がした。喉の奥から、乾いた笑い声が漏れる。ハハ、ハハハ……。まるで自分が壊れたみたいだ。あんなに怯えていたのが、馬鹿みたいじゃないか。

私は来た道をよろよろと引き返し、放り出したままだったスーツケースを拾い上げた。そして、コインロッカーの前にドスン、と脱力した姿勢で座り込んでしまった。

「なんだ、それ……水槽からの音だよ……」

呆れて、もう何も考えられなかった。