夜の隙間、何かが蠢く

深夜の事務所は、もう本当に勘弁してほしい。
蛍光灯の冷たい光が、隅々まで届かない。届かないところは全部、影。まるでこの部屋の奥底に、秘密が隠されてるみたいに薄暗い。そして、この静けさ。マジで勘弁。耳の奥がキーンって鳴ってるんじゃないかってくらい、シーンとしてる。外の音なんて、救急車のサイレン以外は何も聞こえない。それが余計に、私の心臓の音を大きくするんだ。ドクン、ドクンって。うるさい。

お父さんの手伝いで、この大量の資料を整理しなきゃいけないって言われて、もう数日前から夜勤続き。って言っても、私だけだけど。午前3時。スマホの画面がやけに明るく光って、時計の針を教えてくれる。あと少しで今日の分は終わるはずなのに、この静けさが、私の神経を針の先みたいに尖らせる。変な音一つでも、ビクッてなる。影が揺れるだけでも、体が固まる。もう嫌だ、早く明るくなってくれ。胃のあたりがムカムカする。

ふと、窓の外に目をやった。真っ暗。街灯の光が、やけに遠く感じる。また室内に視線を戻した時だった。
棚の奥。資料がぎゅうぎゅうに詰め込まれた、そのさらに奥。薄暗くて、冷たい光がわずかに届くか届かないかの場所。そこだけ、なんだか黒い影がぐにゃっと歪んで、変な形に見えた。まるで、壁に深い亀裂が入って、その向こうに真っ暗な「隙間」が口を開けているみたいに。ゾワッと鳥肌が立つ。

そして、その「隙間」の辺りから、聞こえるんだ。
「カチッ」…って、本当に微かな金属が擦れるような音。いや、擦れるっていうより、何かが揺れて、何かにぶつかるような、そんな乾いた音。最初は気のせいかと思った。でも、この静けさの中で、その音がやけに耳につく。「チリチリ」って、細かい振動がするような音まで混じってる気がする。ああ、もう、心臓が喉まで飛び出してきそう。こんな静かな場所で、なんでこんな音がするの? 絶対、この静けさが何かを呼んでるんだ。私、本当にこの静けさに耐えられない。早く家に帰りたい。

私は急いで、自分の体をごつごつしたスチール製の机の陰に、無理やり押し込んだ。体が震える。手汗がすごい。自分の呼吸の音が、やけに耳障りだ。ヒューヒュー。呼吸が浅くなってるのがわかる。息を潜めて、じっと「隙間」の方を見る。

私の心臓は、もう爆発寸前だ。ドクン、ドクン、ドクン!って、耳元で太鼓でも叩かれているみたいに響く。薄暗い中で、あの「隙間」が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、じわじわと形を変えて、こっちに向かって広がってきているように見えた。黒い影が、まるで生き物みたいにうねってる。いやだ、いやだ。あの「隙間」の向こうから、何かが出てくるんじゃないか。私、この事務所から出られなくなっちゃうかもしれない。全身から力が抜けて、膝がガクガク震える。なんでこんな時間まで一人でいるんだろう。バカだよ私。もう、目眩がしてきた。

落ち着け、私。深呼吸。ゆっくり、ゆっくり。
鼻から吸って、口から吐く。深呼吸。
もう一度、あの「隙間」を見るんだ。目を凝らせ。

私は震える足で、少しだけ机の陰から顔を出した。
やっぱりまだ、あの「隙間」に見える影はそこにある。でも、さっきよりは、少し冷静に見えている気がする。
あの「カチッ」っていう音。よく聞けば、あれは隣の棚に立てかけてあった古い金属製のファイルケースが、床の微妙な傾きで、ほんの少しだけ揺れて、壁に当たって出る音だった。静かすぎて、やけに響いてただけだ。

恐る恐る、一歩、また一歩と近づいていく。
資料が山積みになった棚の、一番奥。棚板と資料の間に、わずかな影になっている部分があった。そこに、何かがある。目を凝らして、さらに身をかがめて覗き込む。

そこにあったのは、錆びて茶色くなった、古びた金属製の鍵だった。
鍵のギザギザの部分と、丸い持ち手の部分が、影と光の加減で、まるで不規則な穴が開いた「隙間」のように見えていたんだ。
「これ…」
私はその鍵を拾い上げた。ひんやりと、重い。
ああ、思い出した。これは、もう何年も使ってない、事務所の隅っこにある古い電子ピアノの鍵盤が、一つだけグラグラしてて、それを固定するために挟んでたやつだ。まさか、資料整理中に奥に押し込まれて、こんなところで発見されるなんて。

「なんだ、ただの錆びた鍵だったのか…」
私の口から、安堵の息が漏れた。全身の力が、一気に抜けていく。へなへなと、その場に座り込んだ。
心臓の音はまだ少し速いけれど、さっきまでのあのパニックは嘘みたいに消え去った。
でも、この静けさに対する不快感は、まだ残ってる。早く朝になって、外が騒がしくなってほしい。
こんな静寂、もう二度と経験したくない。早く、早く、この部屋から出たい。