
深夜のドン・キホーテ。カゴを片手に、俺は目的もなく店内をうろついていた。もう何日も前からだ、この、深夜の闇に馴染む異様な視線を感じる感覚。肌の裏側がゾワゾワするような、背中を這い上がってくる得体のしれない虫みたいな感触。別に誰かに見られているわけじゃないって、頭じゃ分かってる。昼間ならこんなこと気にもならない。あの底抜けに明るい店内で、視線なんて溶けて消えちまう。だけど、こんな人気のない深夜になると、それはもう粘着質に、ねっとりと俺の全身に絡みつくんだ。もういい加減にしてくれよ、マジで胃がキリキリする。このせいで最近全然眠れてないし、肩なんか石みたいに凝っちまってる。
店内は、いつもの爆音じみたBGMもボリュームを落として、なんだか妙に静まり返っていた。この静けさが、余計にあの視線を際立たせる。背後から、横から、上から、まるで無数の目玉が俺の動きを追ってるみたいで、もう不っとい。棚に並んだわけのわかんない雑貨とか、安っぽい電化製品とか、そういうのが全部、こっちを見てるような気がしてくる。疲れてるだけなんだろうけど、この状態が数日続くと、もう疲れとかいうレベルじゃなくなる。一種の精神攻撃だ。
ふと、日用品コーナーの薄汚れた壁に目が止まった。白い壁紙が剥がれて、その下にコンクリートが覗いてる。そこには、何か黒っぽい染みと、薄く広がるカビの跡が重なって、どうにも不気味な模様を描いていた。照明の角度が悪いのか、それとも俺の頭がおかしくなってるのか、その染みが、まるで不揃いな文字の羅列に見える。「ダ…レ…カ…ガ…ミ…テ…ル」。そんな、崩れかけた文字が浮かび上がった気がしたんだ。いや、気のせいだ。きっと影とシミが重なって、そう見えただけだ。パレイドリアってやつだろ。わかってる。わかってるけど、ゾッとするんだ。
その時、遠くから、何か重いものが擦れるような、低い唸り声のような音が聞こえてきた。不規則に、ブォン、とか、ゴォ、とか、低く響く音。それはまるで、あの壁の文字が、影の形を変えながら、俺を追いかけてくる音みたいに感じられた。いや、違う、違うって。この音、重機のエンジンが冷えていく時の音に似てる。工事現場の音だ。でも、こんな深夜に?それにしても、この音、妙に耳障りだ。不規則だから余計に不気味なんだ。
俺は壁から目を離して、周囲に誰もいないことを確認した。客は俺だけ。店員もレジの奥でスマホでもいじってるのか、気配がない。誰もいないのに、あの視線だけは執拗に俺にまとわりつく。本当に、もう吐きそうだ。この視線のせいで、この数日間、飯も喉を通らない。食欲がないのに、胃だけはキュウキュウ痛む。
「いい加減にしろってんだ…」
思わず声に出して呟いた。誰に言ってるのかも分からない。俺は結局、欲しいものも決められず、カゴを置いたまま店内を周回し始めた。どこからこの視線が来てるのか、根源を突き止めてやろうと思ったんだ。店の隅々まで、棚と棚の間、天井の排気口、死角になりそうな場所を片っ端から探した。あの不規則な唸り声も、まるで俺の焦りを煽るように、たまに大きく、たまに小さく聞こえ続ける。
そして、ようやく、店の裏口近くの、普段は客が行かないようなエリアに差し掛かった時だった。ダンボールの積み荷の影から、俺はそれを見つけた。ドン・キホーテの建物の外壁に、仮設の足場が組まれていて、そこに、ごん太のケーブルで繋がれた赤い点滅灯が一つ、取り付けられていたんだ。
チカ、チカ、チカ。
いや、チカチカじゃない。それはずっと、不気味なほど真っ赤な光を放ち続けていた。点滅しているはずの赤いランプが、なぜか故障して、不規則に明滅するどころか、ただひたすら赤く光り続けている。その真っ赤な光が、店内の壁に、歪んだ影と、血のような赤い反射光を落としていた。俺が「誰かが見ている」と錯覚したあの壁の染みも、あの不規則な光が作り出した幻だったんだ。
そして音。唸るような、重い擦過音。それは、ドン・キホーテのすぐ隣で、深夜にもかかわらず工事をしている現場から聞こえてくる、重機が資材を動かす微かな音と、風に揺れる足場の金属が軋む音だった。点滅灯の故障と、工事現場の音が、たまたま重なって、俺の疲弊した脳が勝手に繋ぎ合わせていたんだ。
俺は、その赤い点滅灯を、まるで憎い宿敵を見るかのような目でしばらく見つめた。足場に繋がれた、その赤いランプの電源は、工事現場から伸びる、やけに太い仮設電源のケーブルから取られている。そりゃあ故障してても光り続けるわな。24時間稼働中の工事現場の点滅灯が、ただ故障してただけ。
なんだ、そんなことか。
俺は、その瞬間、全身の力が抜けて、へたり込みそうになった。数日間にわたって俺を苦しめていた「深夜の闇に馴染む異様な視線」の正体が、たったそれだけのことだったなんて。あまりにも拍子抜けで、呆れて、そして何よりも、自分自身の勘違いが情けなくて、乾いた笑いが込み上げてきた。はは、はははは。なんだよ、結局、俺の頭がおかしかっただけじゃんか。ああ、もう、マジで疲れた。この視線を感じる感覚も、今はもう、ただの馬鹿馬鹿しい錯覚に思えた。いや、まだ少しはゾワゾワするけど、それはもう、あの点滅灯が放つ赤い光が、俺の脳裏に焼き付いちまったせいだろう。
結局、ドンキでは何も買わず、俺は店を出た。胃の痛みはまだ残っている。でも、少しだけ、いや、ほんの少しだけ、肩の荷が下りた気がした。あの赤い点滅灯が、まるで俺の馬鹿さ加減を嘲笑うかのように、ずっと赤く光り続けていた。畜生。