
10月5日:始まり
今日も原稿を抱えて、日付が変わる頃に帰宅しました。
玄関の扉に鍵を差し込み、いつものように回そうとしたその時です。
なぜか、鍵が途中で止まってしまいました。
何度試しても、固く閉ざされたまま。
開かない扉の向こうから、微かなエンジン音が聞こえてきます。
耳を澄ますと、それはどうやら「黒い車」のもののようです。
そして、その音に混じって、意味不明なささやき声が聞こえてくるではありませんか。
心臓が激しく脈打ち、背筋に冷たいものが走りました。
ようやく鍵が開いて家に入ると、リビングの「水槽」の中の魚たちが、いつもとは違う様子でした。
普段は活発に泳ぎ回るネオンテトラたちが、まるで石のように水底でじっと動かないのです。
彼らが私を見つめているように感じられ、全身の毛穴が開くような感覚に襲われました。
まさか、何かの予兆なのでしょうか。
10月7日:違和感
あれから二日経ちましたが、毎晩同じことが繰り返されています。
「開かない扉」と、そこから漏れ聞こえる「黒い車」のエンジン音、そしてあの不気味なささやき声。
家の中に入ると、決まって「水槽」の魚たちが無心のように静止しています。
彼らの視線が、私の行動を追っているように思えてなりません。
ただの偶然だ、疲れているだけだと自分に言い聞かせても、一度芽生えた疑念は払拭できません。
まるで、何者かに見張られているような、そんな感覚に囚われています。
夜中にふと目が覚めると、外から聞こえるささやき声が、以前よりもはっきりと聞こえるような気がしました。
幻聴でしょうか。
それとも、本当に何かが近づいているのでしょうか。
眠りが浅くなり、鉛のように重い瞼をこじ開けるたびに、不安が募っていきます。
私は怪談小説家として、これまで数々の恐怖を描いてきましたが、現実のこの状況は、筆が止まるほどの不気味さです。
10月9日:限界
もうだめだ。
夜遅くに帰宅すると、やはり「開かない扉」が私を待ち構えている。
あの「黒い車」のエンジン音と、耳元を這いずるようなささやき声が、直接脳に響いてくるかのようだ。
家の中に入っても、安息はない。
「水槽」の魚たちは、完全に動きを止めていた。
まるで死んでいるかのように、しかし、確かにそこには命がある。
彼らの凍り付いたような視線が、私の精神を蝕んでいく。
何が起こっている?
誰が、何のために?
この恐怖は、もう私の理解の範疇を超えている。
気が狂いそうだ。
私は、この現象の正体を突き止めるべく、意を決して玄関の鍵穴に目を凝らした。
すると、そこに映し出された光景は――
追記:発見者のメモ
この日記は、西村莉子氏の自宅玄関マットの下から発見された。
日記の最後にある通り、彼女は鍵穴から外を覗き、そこで全ての真相を目撃したようだ。
近所に住む老夫婦が、夜中に「黒い車」の中でスピーカーを使い、怪しげなスピリチュアル音楽を流しながら、魚の霊感を高めるための言葉を唱えていたことが判明している。
彼らは、西村氏の家の「水槽」にいる魚が特別な霊力を持つと信じ込んでいたらしい。
また、西村氏が飼っていた魚は、特定の音波に反応しない「耳」を持つ珍しい種類であることが、後に専門家によって確認された。
彼女が感じていた「開かない扉」も、老夫婦が流す音楽の低周波音によって、玄関の建付けが悪くなっていた一時的な現象だったようだ。
西村氏は、この一連の出来事を知った後、しばらくの間、玄関の鍵穴をじっと見つめていたという。
その時の彼女の表情は、恐怖が抜け落ちた後の、形容しがたい脱力感に満ちていたと、近隣住民は語っている。