
老いた校舎と、届かない声
薄暗い教室の片隅で、俺はガタつく机を整理していた。木目の剥げた表面を撫でると、ザラザラとした埃っぽい感触が指先にまとわりつく。もう何度目か分からないため息が喉の奥から漏れた。この一週間、家族からの疛かな連絡がない。それが俺の頭を締め付け、胃の奥をキリキリと痛ませていた。スマホの画面は何度も確認した。真っ暗な画面に自分の疲れた顔が反射するだけ。バッテリーは半分を切っている。きっと古い機種のせいだ。通知が来ても、バグで表示されないだけかもしれない。そう自分に言い聞かせても、心臓の不規則な鼓動は収まらなかった。
「くそっ……」
舌打ちが、やけに広い教室に虚しく響く。腰が痛い。もう四十も半ばを過ぎると、こんな単純な作業でも身体のあちこちが軋む。特に右膝の古傷が、湿った空気のせいでじんじんと疼く。
その時だった。
ギィィ……と、不意に窓ガラスが擦れるような音がしたかと思うと、薄汚れた窓の向こうに、ぼんやりと何か黒いものが現れた。最初はただの汚れかと思ったが、それはゆっくりと、まるで指を一本ずつ置いていくかのように、不気味な形を成していく。手形だ。はっきりと、人間の手のひらの形。
俺の心臓は、ドクン、と大きく跳ね上がった。全身の血の気が引いていくのが分かる。脂汗が額からこめかみに伝う。慌てて周囲を見渡したが、教室には俺一人。廊下も、窓の外も、人気はない。幻覚か? 疲労とストレスでとうとう頭がおかしくなったのか。いや、でも、確かに見た。あの手形は……。
震える指でスマホを握りしめる。また画面を確認するが、やはり家族からの疛かな連絡は、ない。この不安が、俺の判断力を鈍らせているのか。見間違い、そうに決まっている。こんな古びた校舎で、一体誰が……。
教室を出た。廊下も薄暗く、ところどころ電球が切れているのか、影が長く伸びて不気味さを増している。足元がおぼつかない。右膝がさらに痛みを訴える。早くここから出たい。家族に連絡を取りたい。一体、何をしているんだ、あいつらは。俺の心配も知らないで。
一歩、また一歩。古びた木造の床が、ギシギシと音を立てる。その音に、妙に風の音が混じる。ヒュー、ヒュー……。
そして、まただ。
廊下の窓ガラスに、ぼんやりと黒い影が浮かび上がった。さっきと同じ、手の形。俺が歩くたびに、まるでその影も追いかけてくるように、次々と窓に手形が浮かんでいくような錯覚に襲われる。ヒュー、ヒュー、風の音に合わせて、ガラスがギィ……と擦れる音がする。まるで、俺の背後から、誰かが爪でガラスを引っ掻いているみたいだ。
呼吸が荒くなる。喉がカラカラに乾ききっている。胃の不快感が増して、吐き気がこみ上げてくる。マナーモードにしているはずのスマホが、ポケットの中でブルッと震えたような気がして、慌てて取り出した。しかし、画面は真っ暗なまま。気のせいか。もう、何が現実で何が幻覚なのか、分からなくなってきた。家族からの疛かな連絡がないせいで、俺はもう限界だ。このままじゃ、本当に頭がおかしくなってしまう。
「……何なんだ、一体……」
震える声で呟きながら、俺は恐る恐る、最後に手形が浮かんだ窓に近づいた。ガラスは薄汚れていて、外の景色も霞んで見える。鼻を近づけると、鉄が錆びたような、湿っぽい匂いがした。
そこで、俺は気づいた。
窓枠の隙間に、古びた、錆びついた鍵が挟まっていたのだ。風が吹くたびに、その鍵がガタガタと揺れ動き、窓ガラスの内側に擦りつけられていた。鍵の形が、まるで手のひらのように見えたのは、その錆びた形状と、光の加減のせいだった。
全身の力が、フッと抜けた。膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。額に張り付いた脂汗が、冷たい雫となって顎を伝った。心臓のドクドクという音だけが、やけに大きく耳に響く。
俺は、そのまま床にへたり込んだ。そして、込み上げてくる感情を抑えきれずに、ヒヒ、ヒヒヒ……と、乾いた笑い声を漏らした。それは、恐怖が去った安堵と、自分の馬鹿げた勘違いに対する自嘲、そして何よりも、家族からの疛かな連絡がないという、どうしようもない孤独感からくるものだった。
錆びた鍵が、また風に吹かれてギィ、と音を立てた。それでも、俺のスマホの画面は、相変わらず真っ暗なままだった。