ガタガタ。あの子の部屋の音、屋上まで。

屋上のフェンスにへばりついて、冷たい鉄の感触を掌で確かめた。もう何日、こうして夜空を睨みつけているだろう。喉がカラカラに乾いて、唾を飲み込むたびに砂が擦れるような音がする。眠れていない。まともに飯も食っていない。胃のあたりが常に波打っていて、吐き気がこみ上げるたびに奥歯を噛み締める。

あいつが帰ってこなくなって、もう何日経つんだ?
数えるのも億劫だ。
携帯も繋がらない。警察も、最初は熱心だったが、最近は「有力な情報が入り次第」ばかりで、俺の焦りとはまるで温度差がある。
このままじゃ、俺の頭がおかしくなる。いや、もうとっくにおかしくなっているのかもしれない。

風が、ひゅう、と身体を通り抜ける。薄汚れたスウェットの上下じゃ、深夜の冷え込みには勝てない。身体が震える。これも寒さのせいか、それとも恐怖のせいか。
子供の無事を確認できない焦りが、俺の思考を食い破る。あいつはどこにいる? 今、何をしている? ちゃんと飯を食ってるのか? 寒い思いをしていないか? どこかで、誰かに……。

その時だった。
「ガタガタ……」
妙な音が、風に乗って聞こえてきた。最初は、ただの風の唸りだと思った。だけど、違う。これは明らかに、何かがぶつかり合うような、軋むような音だ。
どこからだ? どこから聞こえてくる?
まさか、家の中か?

俺は屋上に出ている。このビルの屋上だ。家の中の音が、ここまで届くはずがない。だというのに、俺の耳は頑なに、あの音が俺の部屋、いや、あいつの部屋から聞こえてくるような気がしてならないのだ。
俺の頭はもう、まともな判断ができない。子供の無事を確認できない焦りが、俺の脳みそを溶かして、正常な機能を奪っている。

「ガタガタ……ガタガタ……」
音が、だんだんと、はっきりと聞こえてくるような気がした。錯覚だ。錯覚に決まっている。
しかし、その錯覚は、妙なリアルさを伴っていた。
フェンスの向こう、街灯の明かりが反射して、時折キラリと光る。その光が、風に揺れるフェンスの影を、奇妙な形に歪めていた。
まるで、誰かが部屋の中で何かを動かしているような影。家具を、引きずっているような。
「……っ!」
心臓が、ドクン、と不規則に跳ねた。
子供の部屋から、物音が聞こえる。誰かが、あいつの部屋で、何かをしている。そして、その影が、今、俺の目の前で蠢いている。
呼吸が浅くなる。胃の底から熱いものが込み上げてきて、思わず口を押さえた。
あいつだ。あいつが、何か危険なことに巻き込まれている。きっと、今、このビルのどこかで……。

足が、勝手に動き出した。フェンスを乗り越えようとする衝動に駆られるが、そんなことをしても意味がない。
音は、確かに、この屋上から聞こえてくる。なのに、俺の頭は、家の中の出来事だと決めつけている。
子供の無事を確認できない焦りが、俺の目を曇らせ、耳を塞ぐ。
「ガタガタ、ガタガタ!」
音が、明らかに大きくなった。耳に張り付くような、不快な響き。
誰かが、俺を呼んでいるのか? それとも、あいつが、助けを求めているのか?
全身の毛が逆立つ。冷や汗が背中を伝い、薄いスウェットが肌に張り付く感触が気持ち悪い。
もう、駄目だ。このままじゃ、俺は気が狂う。あいつを助けられないまま、俺の精神が壊れてしまう。
吐き気が、限界に達した。胃液が喉までせり上がってくる。
なぜ、俺はあいつを守れなかったんだ? なぜ、俺は今、こんな場所で、わけのわからない音に怯えているんだ?
子供の無事を確認できない焦りが、怒りへと変わる。自分自身への、どうしようもない苛立ち。

風が、強くなった。
その時、俺はふと、顔を右に向けた。
これまで、音のする方ばかりに意識を向けていたせいで、ちゃんと周囲を見ていなかった。
屋上のフェンスの向こう側、隣接するビルの壁面に沿って、工事現場の仮設フェンスが立っている。そのフェンスに、大きな看板が取り付けられている。
24時間稼働している向かいの工場が、深夜も煌々と明かりを灯している。その光に照らされて、看板の文字がぼんやりと浮かび上がっていた。
「安全第一」
その看板が、強風にあおられて、激しく揺れているのだ。
「ガタガタ、ガタガタ!」
音の正体は、それだった。
古びた留め具が緩んで、看板がフェンスの鉄骨にぶつかり、軋むような音を立てていたのだ。
暗闇と、風向き、そして、俺の極限まで追い詰められた精神状態が、この単純な物理現象を、俺の脳内で恐ろしい幻覚へと変換していた。

「……っは、はは……」
乾いた笑いが、喉から絞り出された。
全身の力が、一気に抜けていく。フェンスに凭れていた身体が、ずるりと滑り落ちそうになった。
なんだこれ。
なんだ、この無駄な時間。
俺は、こんなガラクタの音に、あいつの身を案じる貴重な時間を費やしていたのか?
怒り、苛立ち、そして、途方もない脱力感。
子供の無事を確認できない焦りは、一瞬たりとも消えていなかった。むしろ、こんなことに気を取られた自分自身への嫌悪感が、それをさらに増幅させている。
「クソッタレが……」
誰に言うともなく呟き、俺はフェンスから身体を離した。
このガタガタが、あいつの無事を告げる音だったら、どんなによかったか。
いや、そんなはずがない。
俺は、疲れた身体を引きずって、屋上のドアへと向かった。
次は、どこで、何に怯えなければならないんだろう。
この終わりのない恐怖は、いつになったら終わるんだ。
俺は、ただ、あいつが無事でいてくれることを、それだけを願っているのに。
背後で、看板の「ガタガタ」という音が、まだ、しつこく鳴り響いている。
まるで、俺の狂気を嘲笑うかのように。