線香の匂い、夫の死因は私?

月明かりが、この「開かずの間」と呼ばれている部屋の埃っぽい空気を薄く照らしている。壁に染み付いた古びたシミが、虫の群れが蠢いているように見えて、ぞっとした。ここは、夫とまだ恋人同士だった頃、二人でよく来た旅館の一室だ。あの頃の私たちは、未来なんて考えずに、ただ目の前の幸福だけを追いかけていた。それなのに、あいつが死んで、もう半年も経つというのに、その死因だけがどうしても思い出せない。喉の奥に鉛の塊が詰まったような、息苦しい感覚。脳みそに膜が張ったみたいに、大事な部分だけがすっぽり抜け落ちている。それが何だったのか、あの日の朝食のメニューは鮮明なのに、彼の最期だけが、まるで煙のように消えてしまっている。この苦しみが、彼を忘れてしまった罰なのだろうか。

夜中、ふと目が覚めた。古い木戸がギシギシと軋む音がする。冷たい風が窓ガラスの隙間から吹き込んできて、肌が粟立つ。途端に、微かな、しかし確かに鼻腔を刺激する匂いが漂ってきた。線香だ。

「これは…線香?まさか…」

誰も線香を焚いているわけがない。こんな時間だし、それにこの部屋は「開かずの間」だ。旅館の人間も滅多に入らないと聞いている。なのに、この匂いは何だ?胃のあたりがぞわぞわする。心臓がドクドクと不規則な音を立て始めた。まさか、あいつが…幽霊になって、私を呼び出しているのか?

匂いは次第に濃くなっていった。部屋の淀んだ空気が風で巻き上げられ、古い埃が舞い上がる。それが月明かりに照らされて、まるで薄い霧が立ち込めているかのような錯覚を覚えた。息が詰まる。背筋に冷たい汗が伝い、寝巻きの背中がびっしょりになった。頭の奥がじんじん痛む。あの日のことだ。あの日の、忌まわしい記憶の断片が、目の前をちらつくのに、肝心な部分だけが、やはり見えない。思い出せない。

「これは一体…亡き夫が私を呼び出しているのか?」

全身が震える。この匂いは、あの日の記憶と繋がっているのか?あの日の朝、夫は何をしていた?どこにいた?どうしても思い出せない。自分の記憶がこんなにも脆いものだとは思わなかった。こんな、簡単なことさえ思い出せないなんて、私は本当に彼の妻だったのだろうか?

必死に目を凝らすと、月明かりが部屋の隅に置かれた古びた衝立の陰を照らしていた。その陰に、何かがある。じっと見つめると、それは四角い枠に収められた、見慣れた顔だった。

「あ…これは…遺影…」

埃を被った、亡き夫の遺影だった。衝立の裏、古い荷物の間にひっそりと置かれていたのだ。どうしてこんなところに?よく見ると、遺影のすぐ脇には、古びた木箱と、埃をかぶった線香立てが置かれている。木箱の中には、湿気で少し変色した、使い残しの線香が何本か残っていた。

そうだ。この部屋は、夫がまだ若かった頃、旅館の手伝いをしながら居候していた部屋だった。彼が亡くなった後、きっと誰かが彼の遺影と、彼が使っていた線香をここに置いていったのだろう。この「開かずの間」は、長年誰も入らなかったから、そのまま忘れ去られていたのだ。古い線香が、湿った空気と冷たい風で、微かにその匂いを立ち上らせていたのか。

線香の匂い。この匂いは、夫がまだ生きていた頃、この部屋でよく焚いていた線香の匂いだった。彼は瞑想する時や、考え事をするときに、決まってこの匂いを好んだ。そして、この部屋で、私にプロポーズしてくれたのだ。あの日の夜、彼は照れくさそうに、この線香の匂いの漂う中で、指輪を差し出してくれた。

彼の死因は、まだ思い出せない。脳の霧は晴れないままだ。しかし、この線香の匂いと、遺影を見つけたことで、夫との、この部屋での記憶が、まるで色鮮やかな絵巻のように蘇ってきた。出会い、恋、そして共に過ごした時間。私は、彼のことを忘れていなかった。ただ、あまりにもショックが大きすぎて、一番大事な部分だけが、一時的に隠れてしまっていただけなのだ。

遺影の夫は、少し困ったように笑っていた。私は、安堵と、少しの苦笑いを浮かべながら、その顔を見つめ返した。この線香の匂いは、私を恐怖に陥れたけれど、同時に、失われたと思っていた大事な記憶を、確かに呼び戻してくれた。夫の死因は、まだ思い出せない。だが、きっと、この記憶の糸を辿っていけば、いつか、その真実にたどり着けるだろう。そう信じて、私は古びた線香立てから一本線香を取り出し、火を点けることもなく、ただ、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。