
鳥居の前に立った瞬間、全身の毛穴がキュッと締まるような寒気が背筋を這い上がった。いや、これは夜の冷気だけじゃない。もっと内側から、冷たい水が血管を逆流するような、あの嫌な感覚だ。ここだ。全てが始まった場所、そして終わらなかった場所。あの日のこと、あの忌まわしい出来事が、また頭の隅っこで燻り始めた。もう、いい加減にしてくれ。胃の奥がむかむかする。
数日前、友人が消えた。あの馬鹿は、この神社に何か遺品を残したと言っていた。その中に、絵画があった。なんでまたこんな場所に、そんなものを。遺品整理もままならないまま、俺は今、こうして夜中に一人でここに立っている。湿った空気が纏わりついて、肌がべたつく。古い土と苔の匂い、それに焚き火の残り香みたいなものが混じって、余計に気分が悪い。
その時だった。
遠くから、何か聞こえた。低く、重い、響くような音。最初は風のせいかと思ったが、違う。それは規則的で、しかし不規則に途切れる、まるで遠い場所から聞こえてくるお経のような、重苦しい響きだった。ドォン、ドォン……というよりは、ズズズン、ズズズン、と地面を這うような、身体の奥に直接響くような音。深夜の神社に、こんな音が。心臓が嫌な音を立て始める。早鐘のように脈打つ、その音すら耳障りだ。
「おい、冗談だろ……」
思わず声が漏れた。音は断続的で、まるで誰かが息をひそめているかのように、しばらく途絶えたかと思えば、また不意に響き渡る。夜闇が、その音を一層不気味に増幅させている。風もないのに、鳥居のしめ縄が微かに揺れているように見えたのは、きっと目の錯覚だろう。いや、本当に揺れてたのか? もう何も信じられない。あの日のことがフラッシュバックして、また背筋が寒くなる。あの時も、俺は何も見えていなかった。何も、聞けていなかった。
ズズズン……。
音が、近づいてくる。いや、錯覚だ。錯覚だと言い聞かせても、身体は正直だ。汗が、冷たいのにじっとりと肌を覆う。指先が痺れて、歯の根が合わない。周囲には誰もいない。いるはずがない。なのに、あの不気味な声のような低周波音は、確かに俺のすぐ近くから聞こえている。耳鳴りか? いや、違う。これは明らかに外からの音だ。恐怖が最高潮に達する中で、視界の端に、何か黒い塊が揺らめくのが見えた。木の影か? それとも、風で揺れる葉か? いや、もっと重い、明確な形が、ゆっくりと動いているような……。
もう限界だった。このままここにいたら、頭がおかしくなる。あの日のように、また何か取り返しのつかないことになる前に、この音の正体を突き止めなければ。震える足で、俺は音のする方へ向かった。一歩、また一歩。足元の石が滑りそうで、何度もよろめく。心臓が喉まで飛び出してきそうだ。
暗闇に目が慣れてくると、その「何か」の正体が見えてきた。それは、まさしく友人が残したという、あの絵画だった。古い額縁に収められた、抽象的な絵。その絵画が、まるで生きているかのように微かに振動している。近づいて、恐る恐る絵画の裏側に回り込むと、そこにはガムテープでべったりと貼り付けられた、手のひらサイズの古い携帯ラジオがぶら下がっていた。液晶は真っ暗で、本体の隙間から微かに赤いランプが点滅している。そして、そのラジオから「ジーッ、ジーッ……ブツッ、ブツッ」という、途切れ途切れの、不安定な低周波ノイズが漏れていたのだ。まるで電池切れ寸前の、老いぼれた機械が呻いているような音。これが、お経のような重苦しい音の正体だったのか。
全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。脱力感。そして、馬鹿馬鹿しさ。俺は一体何を怖がっていたんだ。こんな、ただの電池切れのラジオに。笑い声が込み上げてきた。喉の奥から、乾いた、情けない笑い声が漏れる。
「はは……、ははは……」
情けねえ。本当に情けない。あの日のことといい、俺はいつもこうだ。肝心なところで、冷静さを欠く。
ラジオの隙間をよく見ると、さらに何か紙切れが挟まっているのが見えた。引っ張り出すと、それは友人の手書きの手紙だった。
『……この絵は、お前へのメッセージだ。ここに隠した。俺がなぜこの神社で絵画を残すことにしたのか、きっとわかるはずだ。お前なら。』
俺はまた、背筋が寒くなるのを感じた。これは、俺への挑戦状か? それとも、嘲りか? いや、友人は、きっと俺がこの場所に、この絵画に、辿り着くことを知っていたんだ。そして、この「音」も、偶然ではないような気がした。
手紙を握りしめ、冷たい夜風に吹かれながら、俺は絵画をじっと見つめた。抽象的な絵の中に、何か見慣れた記号のようなものが隠されている。影とシミが重なって、まるで俺がかつて描いた、あの日の秘密を暗示するような文字に見えた。パレイドリアだと分かっているのに、心臓がまた嫌な音を立てる。友人は、一体何を伝えたかったのか。そして俺は、あの日の秘密から、本当に逃れられるのだろうか。この寒気は、まだしばらく収まりそうになかった。