終電の闇、友の死が滲む床

深夜の地下鉄、あの日の雨と、友の影

ああ、まただ。この胸の奥が、ぎゅうっと掴まれるような痛み。何をやっても、何を見ていても、あいつの顔がちらつく。本当に、信じられない。まさか、あいつが先に逝ってしまうなんて。まだ、50そこそこじゃないか。あの底抜けに明るかった笑顔が、もう見られないのかと思うと、胸の奥が冷たくて、どうしようもない。

雨が降っていた。しとしと、というよりは、ざあざあ、と。傘を差しても肩が濡れるような、生温かくて重い雨。こんな日は、いつもあいつと喫茶店で時間を潰したものだ。くだらない話で笑い転げて、ああ、あの頃は良かった。今はもう、それも叶わない。電車の音も、雨の音も、全部が遠くで鳴っているような気がして、耳鳴りがひどい。

終電近くの地下鉄ホームは、人気がまばらで、ひやりとした空気が肌にまとわりつく。蒸し暑いのに、背筋が寒い。あいつの死の知らせを聞いてから、もう何日経っただろう。食欲もないし、寝た気がしない。胃のあたりが常に重く、鉛でも詰まっているかのようだ。

ぼんやりと、壁際を歩いていたときだった。
足元が、やけに濡れている。こんな深夜に、まさか雨漏り?いや、それにしては範囲が広すぎるし、何より、その濡れ方が妙に不気味だった。べったりと、まるで何かの液体が撒かれたように、床がテカっている。薄暗いホームの照明の下で、その水溜まりが、まるで人の影のように歪んで見えた。

「これは…何だ?」

頭の中で、警報が鳴り響く。こんな時間に、誰がこんな場所に水を撒くんだ?清掃?いや、清掃ならもっと均等に、もっと手際よくやるはずだ。この、妙に一点に集中した濡れ方と、その水溜まりの底から滲み出ているような黒っぽい影が、どうにも気味が悪い。

まさか、罠?
こんなこと、ありえないと分かっている。分かっているのに、あいつの死が、私の正常な判断力を奪っている。頭の片隅で、あの頃のあいつの笑い声が聞こえる気がして、また胸が締め付けられる。あの時、もっと何かしてやれたんじゃないか。もっと早く連絡を取っていれば。そんな後悔ばかりが頭の中をぐるぐる回る。
そのせいで、目の前の現実が、まるで歪んだ鏡に映ったように見えてくる。

「誰か、私を陥れようとしているのか?」

妄想だと分かっていても、止められない。最近、妙に不運が続いていた。財布を落としたり、大事な契約書をなくしかけたり。全部、あいつの死と関係があるような気がしてくる。呪いか?いや、そんな馬鹿な。でも、この水溜まりの形が、まるで誰かが倒れた跡のようだ。暗い影が、まるで血のように広がっているように見えなくもない。

心臓がドクドクと、耳の奥で鳴り続ける。足が、鉛のように重い。こんな時に、こんなものを見せられるなんて、一体誰の仕業なんだ。
あいつが死んだのは、事故じゃなかったのか?誰かが、誰かが私に、何かを伝えようとしているのか?
ああ、もう、考えるのが嫌だ。思考が、泥の中に沈んでいくようだ。胃もきりきりする。

恐る恐る、一歩、また一歩と近づいた。
息を潜め、目を凝らす。
そこに広がっていたのは、水ではなかった。少なくとも、ただの水溜まりではなかった。

壁に、大きな木製の板が立てかけられていた。それは、見慣れた形だった。何本もの溝が刻まれ、漢字のようなものが書かれている。そして、その板の、ちょうど地面に接する部分が、べったりと濡れている。底から滴り落ちた水が、周囲の床に広がって、そこに影が落ち、私が遠目から見た「不気味な水溜まり」を作り出していたのだ。

卒塔婆……。

ああ、そうか。これ、卒塔婆だ。
先日の、あいつの葬儀で見たばかりじゃないか。
その板のすぐ横には、清掃作業員が使うであろう、大きなポリバケツと、柄の長いモップが立てかけられていた。バケツのそばには、ホームの壁にあるコンセントから伸びる、オレンジ色の仮設延長コードが、清掃用と思われる高圧洗浄機に繋がっていた。どうやら、深夜の清掃作業中に、一時的にそこに置かれていたらしい。
そうか、だから床が濡れていたんだ。清掃作業で水を撒いていたから。そして、その水浸しの床に、誰かがうっかり卒塔婆を立てかけてしまったんだ。

プッと、気が抜けるような笑いがこみあげてきた。
なんだ、こんなことか。
こんな、くだらない勘違い。
あいつの死のショックで、完全に冷静さを失っていた。

力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。
安堵した、はずなのに、なぜだろう。胸の奥は、相変わらず冷たいままだ。
卒塔婆。そうか、卒塔婆。あいつの葬儀で、たくさんの卒塔婆が並んでいたっけ。その一つ一つに、あいつの名前が書かれていて。
そう思うと、また、あの胸の痛みがぶり返してきた。

ああ、本当に、あいつはもう、いないんだ。
どんなにくだらない勘違いをしても、あいつが笑い飛ばしてくれることは、もう二度とないんだ。
胃の痛みも、頭痛も、何もかも、まだそこにある。
雨の音だけが、遠く、寂しく響いていた。