事故物件の夜、床下から響く心臓音

もう、何度目だろう。スマホを握りしめては、また画面をスワイプして、あの子のトーク履歴を開く。既読はつかない。当たり前だ。もう丸二日、既読すらつかないんだから。最後に送った「大丈夫?何かあった?」の文字が、白い画面に虚しく並んでいる。返事がないのはいつものことだけど、さすがに今回は長すぎる。まさか、何かあったんじゃないだろうか。あんなに元気だったのに。

この部屋に来てから、どうも神経が過敏になっている。ここは、噂の事故物件。家賃が安いってだけで飛びついたのは失敗だったかもしれない。夜になると、妙に壁のシミが人の顔に見えたり、風もないのに隙間風がどこからか吹き込んでくるような気がしたりする。
今夜もそうだ。シンクに溜まった洗い物を横目に、冷え切ったレトルトカレーを温めようとレンジのボタンを押した瞬間、変な音が聞こえた気がした。

最初は気のせいかと思った。耳鳴りかな、と。最近、寝不足で頭が重いし、ずっとスマホを見ているせいか、目の奥がジンジンする。でも、それは耳鳴りとは違う。微かに、本当に微かだけど、どこか遠くから響いてくるような、低い、重い振動。まるで、古い冷蔵庫のモーターが唸っているみたいな音。あるいは、遠くの道路工事の地響きか。でも、こんな夜中に?

スマホをもう一度確認する。やっぱり既読はつかない。あの子、いつもならどんなに忙しくてもスタンプの一つくらいは送ってくれるのに。まさか、何か事件に巻き込まれたとか?そういうニュース、最近多いじゃない。この事故物件に住んでる私も、いつ巻き込まれるか分かんない。そう考えると、背筋がゾッとする。

音は、だんだん大きくなっている気がする。いや、大きくなっている、というより、私の鼓膜に直接響いてくるような、嫌な重さが増している。ズン、ズン、と、まるで心臓の鼓動が不そのまま床を伝わっているみたいだ。胃のあたりがキリキリと痛み出す。夕食も喉を通らないだろうな、これじゃ。吐き気がする。
この音が、この部屋の前の住人の……、なんて考えが頭をよぎって、慌てて首を振った。そんな非科学的なこと、信じるもんか。でも、もし本当に何かの気配だとしたら?何かが、この部屋のどこかに潜んでいて、私を、私だけを狙っているとしたら?

「やめてよ…」

声に出すと、情けないほど震えていた。息が詰まる。喉がカラカラに乾くのに、水を飲むのも怖い。キッチンに立つのが億劫で、床に散らばった洗濯物を蹴散らしながら部屋の隅に座り込む。
音は、もう気のせいじゃない。確実に、壁の向こうから、床下から、あるいはこの部屋のどこかから、低く、重く響いている。まるで、何か巨大なものが、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ這い寄ってくるような不気味さ。
あの子は今、どうしてるんだろう。もしかしたら、私と同じように、どこかで一人で怯えているのかもしれない。それとも、もう……。嫌だ、考えたくない。でも、その思考が止められない。

その時だった。ズン、という重い音の合間に、カチャ、と、金属が擦れるような、不規則な音が混じった。まるで何かが、引っかかっては、外れるような。
何かが、動いている。
全身の毛穴が開くような感覚。鳥肌が立つ。冷や汗が背中を伝っていくのが分かった。
私はスマホのライトを震える手で点け、恐る恐る、音のする方へと視線を向けた。部屋の隅にある、古びた郵便受け。前に住んでいた人が残していった、ガタガタの、錆びた鉄製の郵便受けだ。
そこから、音がする。
ズン、カチャ、ズン、カチャ……。

私はゆっくりと、本当にゆっくりと、郵便受けに近づいていく。足元に転がっていたペットボトルを蹴飛ばしてしまい、その音に心臓が飛び跳ねそうになった。頼むから、ただの誤解であってくれ。この吐き気が、不安が、全部私の思い過ごしであってくれ。あの子も、どうか無事でいて。

スマホの明かりを郵便受けの内部へと差し込む。
錆び付いた蓋の隙間から、埃と蜘蛛の巣が絡まった暗闇が覗いている。そして、その奥。
明かりが届かない、ちょうど死角になっていた場所に、何かが見えた。
私は息を詰めて、さらに奥へとライトを向け、目を凝らす。
床に、小さな金属の塊が転がっていた。
錆びた、鍵だ。
古びた、分厚い鍵。それが、郵便受けの奥の、壁と鉄板の隙間に挟まるようにして落ちていた。そして、どうやらこの部屋全体に響いている微細な振動(おそらく、古い建物の構造的なものか、遠くを走る電車の振動だろう)によって、その鍵が、郵便受けの内壁の錆びた金属部分に、不規則に、カチャカチャと擦れては、その音が郵便受けの中で反響し、低く、重い音として響いていたのだ。
まさか、こんなものが。

脱力した。全身から力が抜けて、その場にへたり込む。
ああ、なんだ。これか。
「これ、かよ……」
情けなくて、苦笑いが漏れた。
この錆びた鍵、前に不動産屋の人が「この郵便受け、鍵が壊れてて直せないんで、もう使わないでくださいね」って言ってたっけ。どうやら、その修理用の鍵だったらしい。結局、誰も直すこともなく、そのまま放置されて、いつの間にか郵便受けの中に転がり落ちていたんだろう。

私はもう一度、スマホの画面を見た。既読はまだつかない。
あの時の恐怖は、鍵の音なんかじゃなくて、あの子の安否を心配する気持ちと、この事故物件という環境が作り出した、私の妄想だったんだ。
胃の痛みはまだ少し残っているけれど、先ほどまでの尋常じゃない恐怖は、少しずつ引いていく。
深呼吸をする。
とりあえず、この鍵は捨てよう。そして、あの子にもう一度だけメッセージを送ってみよう。
「本当に大丈夫?心配だよ」
今度は、もう少しだけ、冷静に。
まだ、連絡がないだけだ。きっと、大丈夫。そう信じるしかない。
早く、この吐き気が治まってくれないかな。お腹も減ってきたし。# 夜の謎音 - 事故物件からの誤解

もう、何度目だろう。スマホを握りしめては、また画面をスワイプして、あの子のトーク履歴を開く。既読はつかない。当たり前だ。もう丸二日、既読すらつかないんだから。最後に送った「大丈夫?何かあった?」の文字が、白い画面に虚しく並んでいる。返事がないのはいつものことだけど、さすがに今回は長すぎる。まさか、何かあったんじゃないだろうか。あんなに元気だったのに。

この部屋に来てから、どうも神経が過敏になっている。ここは、噂の事故物件。家賃が安いってだけで飛びついたのは失敗だったかもしれない。夜になると、妙に壁のシミが人の顔に見えたり、風もないのに隙間風がどこからか吹き込んでくるような気がしたりする。
今夜もそうだ。シンクに溜まった洗い物を横目に、冷え切ったレトルトカレーを温めようとレンジのボタンを押した瞬間、変な音が聞こえた気がした。

最初は気のせいかと思った。耳鳴りかな、と。最近、寝不足で頭が重いし、ずっとスマホを見ているせいか、目の奥がジンジンする。でも、それは耳鳴りとは違う。微かに、本当に微かだけど、どこか遠くから響いてくるような、低い、重い振動。まるで、古い冷蔵庫のモーターが唸っているみたいな音。あるいは、遠くの道路工事の地響きか。でも、こんな夜中に?
スマホをもう一度確認する。やっぱり既読はつかない。あの子、いつもならどんなに忙しくてもスタンプの一つくらいは送ってくれるのに。まさか、何か事件に巻き込まれたとか?そういうニュース、最近多いじゃない。この事故物件に住んでる私も、いつ巻き込まれるか分かんない。そう考えると、背筋がゾッとする。

音は、だんだん大きくなっている気がする。いや、大きくなっている、というより、私の鼓膜に直接響いてくるような、嫌な重さが増している。ズン、ズン、と、まるで心臓の鼓動がそのまま床を伝わっているみたいだ。胃のあたりがキリキリと痛み出す。夕食も喉を通らないだろうな、これじゃ。吐き気がする。
この音が、この部屋の前の住人の……、なんて考えが頭をよぎって、慌てて首を振った。そんな非科学的なこと、信じるもんか。でも、もし本当に何かの気配だとしたら?何かが、この部屋のどこかに潜んでいて、私を、私だけを狙っているとしたら?

「やめてよ…」

声に出すと、情けないほど震えていた。息が詰まる。喉がカラカラに乾くのに、水を飲むのも怖い。キッチンに立つのが億劫で、床に散らばった洗濯物を蹴散らしながら部屋の隅に座り込む。
音は、もう気のせいじゃない。確実に、壁の向こうから、床下から、あるいはこの部屋のどこかから、低く、重く響いている。まるで、何か巨大なものが、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ這い寄ってくるような不気味さ。
あの子は今、どうしてるんだろう。もしかしたら、私と同じように、どこかで一人で怯えているのかもしれない。それとも、もう……。嫌だ、考えたくない。でも、その思考が止められない。

その時だった。ズン、という重い音の合間に、カチャ、と、金属が擦れるような、不規則な音が混じった。まるで何かが、引っかかっては、外れるような。
何かが、動いている。
全身の毛穴が開くような感覚。鳥肌が立つ。冷や汗が背中を伝っていくのが分かった。
私はスマホのライトを震える手で点け、恐る恐る、音のする方へと視線を向けた。部屋の隅にある、古びた郵便受け。前に住んでいた人が残していった、ガタガタの、錆びた鉄製の郵便受けだ。
そこから、音がする。
ズン、カチャ、ズン、カチャ……。

私はゆっくりと、本当にゆっくりと、郵便受けに近づいていく。足元に転がっていたペットボトルを蹴飛ばしてしまい、その音に心臓が飛び跳ねそうになった。頼むから、ただの誤解であってくれ。この吐き気が、不安が、全部私の思い過ごしであってくれ。あの子も、どうか無事でいて。

スマホの明かりを郵便受けの内部へと差し込む。
錆び付いた蓋の隙間から、埃と蜘蛛の巣が絡まった暗闇が覗いている。そして、その奥。
明かりが届かない、ちょうど死角になっていた場所に、何かが見えた。
私は息を詰めて、さらに奥へとライトを向け、目を凝らす。
郵便受けの底、手前の荷物の陰に隠れるようにして、小さな金属の塊が転がっていた。
錆びた、鍵だ。
古びた、分厚い鍵。それが、郵便受けの内壁と、底に溜まった泥のような埃の隙間に挟まるようにして落ちていた。そして、どうやらこの部屋全体に響いている微細な振動(おそらく、古い建物の構造的なものか、遠くを走る電車の振動だろう)によって、その鍵が、郵便受けの内壁の錆びた金属部分に、不規則に、カチャカチャと擦れては、その音が郵便受けの中で反響し、低く、重い音として響いていたのだ。
まさか、こんなものが。

脱力した。全身から力が抜けて、その場にへたり込む。
ああ、なんだ。これか。
「これ、かよ……」
情けなくて、苦笑いが漏れた。
この錆びた鍵、前に不動産屋の人が「この郵便受け、鍵が壊れてて直せないんで、もう使わないでくださいね」って言ってたっけ。どうやら、その修理用の鍵だったらしい。結局、誰も直すこともなく、そのまま放置されて、いつの間にか郵便受けの中に転がり落ちていたんだろう。

私はもう一度、スマホの画面を見た。既読はまだつかない。
あの時の恐怖は、鍵の音なんかじゃなくて、あの子の安否を心配する気持ちと、この事故物件という環境が作り出した、私の妄想だったんだ。
胃の痛みはまだ少し残っているけれど、先ほどまでの尋常じゃない恐怖は、少しずつ引いていく。
深呼吸をする。
とりあえず、この鍵は捨てよう。そして、あの子にもう一度だけメッセージを送ってみよう。
「本当に大丈夫?心配だよ」
今度は、もう少しだけ、冷静に。
まだ、連絡がないだけだ。きっと、大丈夫。そう信じるしかない。
早く、この吐き気が治まってくれないかな。お腹も減ってきたし。