
息子の不始末と、地下の吐息
また、この時間か。時計の針はとうに日付を跨いでいる。足を引きずるようにして、会社帰りの夜道を歩く。革靴の底がアスファルトを擦るたび、膝の古傷がじくじくと痛む。こんなになるまで働かされて、一体誰のためだ。息子の顔が脳裏をよぎる。あの子がもう少し、いや、せめて人並みに働いてくれれば、私もこんな思いをしなくて済むものを。この前の喧嘩だってそうだ。私が言っているのは、あの子のためを思ってなのに、どうしてああも反発するのか。胸の奥が、重い鉄の塊になったみたいにズンと沈む。
重い足取りで、改装中の地下駐車場へと続くスロープに差し掛かる。この辺りだけは、照明がまばらで薄暗い。蛍光灯のカバーが外れたままぶら下がっていたり、一部は点滅を繰り返していたりする。まるで、私の心みたいじゃないか。先月の改装工事からずっとこのままだ。どうせ、ろくに予算もかけずにやっつけ仕事なんだろう。工事の埃っぽい匂いが、まだ微かに鼻につく。
スロープを下り始めると、妙に生暖かい空気がまとわりついてきた。今日の夜はこんなに蒸し暑かったか?それに、なんだか耳の奥で、低い唸り声のようなものが響いている。ドォォン……ドォォン……と、地面の底から這い上がってくるような重低音。心臓がドクリと跳ねる。まさか、地下鉄の線路がこんな近くを通っているのか?いや、この駐車場の下にそんなものはないはずだ。はぁ、また始まった。この胸の圧迫感。動悸がする。これもストレスのせいだろう。ストレスの原因は、もちろんあの子だ。大学を卒業してからというもの、定職にもつかず、フラフラと…
生暖かい風が、突然、勢いを増して吹き付けてきた。髪が顔に張り付く。湿った熱気だ。まるで巨大な生き物の吐息みたいに、ねっとりと肌にまとわりつく。ドォォン、ドォォンという低音はさらに大きくなり、今度はキィィンという金属が擦れるような、あるいは重いモーターが唸るような音が混じり始めた。何かが、来る。何かが、この地下に。
「ひっ…」
思わず喉から声が漏れた。全身の毛穴が開くような不快感。汗がじんわりと背中を伝う。地下鉄が、この駐車場の地下を突き破って侵入してくるのか?そんな馬鹿な。でも、この音、この振動、この熱気は一体……。一瞬、血の気が引いた。まさか、これは、あの子の仕業じゃないだろうな?ゲームでよく見るような、ドッキリか何かで、私を驚かせようと……?いや、そんなことをするにしては、あまりにも悪趣味すぎる。でも、あの子ならやりかねない。私への反抗心から、こんな真似を…?そう思うと、怒りが込み上げてきた。この期に及んで、また私の神経を逆撫でするのか、あの馬鹿息子は!
恐怖と怒りで呼吸が荒くなる。息が苦しい。早くここを出なければ。しかし、身体が鉛のように重い。
ドォォン、キィィン……音がピークに達し、風が渦巻くように吹き荒れる。私は半ばパニックになりながら、薄暗い空間を睨みつけた。
その時、一瞬、視界の隅に黒い丸い影が見えた。足元の、アスファルトに埋め込まれた、古びたマンホールだ。最初は暗闇に紛れて、ただの地面の窪みかと思ったが、よく見れば確かにそれだ。そして、そのマンホールが、微かに、ほんの微かに、揺れているように見えた。いや、揺れているのはマンホールの蓋ではなく、その隙間から、何かが漏れている。
その瞬間、風と音が潮が引くように収まっていった。周囲を見渡すと、改装工事で運び込まれたらしい、巨大な白い換気ダクトが、壁際にいくつも設置されているのがぼんやりと見えた。そのダクトの端には、太いオレンジ色の延長コードが繋がれていて、その先は、この地下駐車場の一角にある、24時間営業のコンビニの裏口の方へと伸びている。ああ、なるほど。コンビニの排熱か。あるいは、地下の施設から何かを運び出すための換気扇か、排気口か。深夜でも営業している店舗の裏側で、設備を動かしている音だったのか。だから、あの生暖かい湿気のある風が、マンホールの隙間から吹き出していたのか。
ドォォン、ドォォンという低音は、遠くの建設現場で夜間工事をしている重機の音だったのだろう。それが地下に反響して、耳元で鳴っているように感じられただけだ。そして、マンホールから漏れ出る換気扇の音が、それに混じって、巨大な機械音に聞こえた、と。
肩の力が、ゆっくりと抜けていく。全身から、冷や汗がどっと噴き出した。なんだ、そうだったのか。勘違い。全く、何をやっているんだか。
ふう、と大きく息を吐き出す。
心臓のバクバクも、少しずつ落ち着いてきた。
でも、あの息子への怒りと、将来への不安だけは、まるで居座り続ける胃の不快感のように、またすぐに私の頭を占め始めた。マンホールの蓋が、まるで嘲笑っているように見えた。早く家に帰って、あの不甲斐ない息子の顔を見て、また小言の一つでも言ってやらなければ。それが、私の仕事なのだから。