
「夜の屋上で鳴る謎の音」
また、この時間だ。もう何日まともに眠れていないだろう。屋上のフェンスに寄りかかって、夜空を見上げている。東京の空はどこまでも灰色で、星なんて見えやしない。私の心みたいに、ずっと澱んでいる。
最近、本当に自分がどうかしていると思う。いつも誰かに見られているような気がして、物音がするたびに心臓が跳ね上がる。宅配便のピンポンが鳴るだけで、喉がひりついて、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。誰かが私を狙っている、私を追い詰めている。分かってる、分かってるのよ、そんなはずないって。でも、頭の中のもう一人の私が、執拗にそう囁くんだ。心細くて、不安で、何もかもが信用できない。たった一人でいるのに、息苦しくて仕方ない。このままじゃ本当に壊れてしまう。もう嫌だ。
その時だった。
「カタ……カタ……」
微かな音が、闇の向こうから聞こえてきた。最初は風のせいだと思った。この屋上は、いつも風が強いから。でも、その音は、まるで何かを引っ掻くような、硬いものが不規則にぶつかり合うような、妙に生々しい響きだった。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。まただ。また始まった。
全身の毛穴が開いたように、肌が粟立つのを感じる。掌はじっとりと汗をかいて、スマホを握る指先が震える。
目を凝らす。あの音のする方向へ。でも、夜の屋上はどこまでも薄暗くて、フェンスの向こうは闇に溶けている。街の灯りがわずかに届くけれど、それがかえって影を濃くして、何もかもが恐ろしい形に見える。
「カタ……カタ……」
音が、少し止んだ。
私は息を詰めて、ただ耳を澄ませる。
頼むから、何もするな。何も近づいてくるな。
誰もいないはずなのに、誰かの視線を感じる。きっと、フェンスの向こう側から、じっと私を見ているんだ。そして、今にもこちらに乗り越えてくるんじゃないか。
「カタッ!……カタカタッ!」
今度は、さっきよりもはっきりと、そして少しだけ強く聞こえた。心臓がドンドコと鳴り響いて、頭の中で血が脈打つ音がする。耳鳴りのせいか、音そのものが大きくなったのか、判断がつかない。でも、確実に、誰かが近づいてきている。私を捕まえに、ここまで上がってきたんだ。
胃がキリキリと痛む。冷や汗が背中を伝っていく。もう、限界だ。この状態が何日も続いて、食事も喉を通らない。眠れない。眠っても悪夢ばかり。ただでさえ疲弊しきっているのに、こんな恐怖に晒されて、もう、本当に、本当に嫌だ。
「誰、そこにいるの……!」
声が震えて、か細い。でも、答える者は誰もいない。
恐怖がピークに達した。このまま闇の中で怯え続けるのはもう無理だ。
私は震える指でスマホのライトを点けた。鋭い光が闇を切り裂き、フェンスの向こう側を照らす。
ピカッと光が届いたその先に、それはあった。
フェンスの影に隠れるように、無造作に置かれた段ボール箱。
ああ、なんだ……。
脱力感で、その場に座り込みそうになる。
宅配便だ。深夜に届いた荷物。配達があったことすら、すっかり忘れていた。
ドライバーが荷物を置いて去った時、きっとこの箱がフェンスか地面に擦れて、あの「カタカタ」という音を立てたのだろう。あるいは、風が吹いて箱が揺れたのかもしれない。私の疲弊しきった耳には、それが誰かが私を探している音に聞こえたんだ。
馬鹿みたいだ。
安堵と同時に、どっと疲労が押し寄せる。そして、自分の精神状態への絶望感。こんな些細な音で、ここまで追い詰められてしまうなんて。苦笑が漏れる。誰もいない屋上で、一人きり、私はただ虚しく笑った。
でも、本当にあれはただの箱の音だったのだろうか?
今、この瞬間も、どこかで誰かが見ているんじゃないか?
私の強迫観念は、そう囁き続けている。
ああ、まただ。この不快な感覚は、どこまで私を蝕んでいくんだろう。