
胃がキリキリと痛む。さっきから何度スマホを再起動しただろう。PCも、もう何度Wi-Fiの接続設定をいじったことか。深夜のネットカフェの一角で、私は完全に孤立していた。
「接続できません」
ディスプレイに表示されるその文字が、まるで世界からの拒絶宣告のように見えて、心臓がみっともなく跳ねる。もう日付が変わって久しい。普段ならとっくに寝ている時間だけど、明日の朝までに提出しなきゃならない資料がある。Wi-Fiさえ繋がっていればあと一息で終わるのに。この情報断絶状態が、皮膚の下を這い回る虫みたいに不快で、吐き気がする。もう指先まで冷え切っているのに、手のひらだけが妙にジットリと汗ばんでいた。
ふと、視界の隅に青い光が揺れた。薄暗い店内、壁と壁の継ぎ目、カウンターの奥に続く通路の入り口あたり。そこが妙に薄明るい。青い光。ぼんやりとだが、その光がまるで壁の小さな裂け目から漏れているように見えた。いや、光だけじゃない。微かな、どこか電子的な唸り音のようなものも聞こえる気がする。耳を澄ますと、その唸り音に混じって、時折「カチッ、カチッ」と不規則な機械音が響く。
まさか。こんな場所で。
情報が遮断された脳みそは、一瞬にして妙な方向へ走り出す。壁の隙間。そう、あれは「隙間」だ。得体の知れないものが潜んでいそうな、世にも恐ろしい「隙間」。この、情報が寸断された真っ只中で、私の心にもポッカリと穴が空いて、そこから不穏な何かが這い出てくるような錯覚に囚われる。ああ、どうして今、こんな時に限ってWi-Fiが切れるんだ。世界の終わりか。いや、私の仕事の終わりだ。このままじゃ、私は社会の歯車から外れて、二度と戻れない深い穴に落ちていくような気がしてならない。
周りの客たちは、誰も私の異変に気づいていない。あるいは、彼らは情報という名の麻薬に浸かりきっていて、私の絶望なんてどうでもいいのかもしれない。ヘッドホンで耳を塞ぎ、PC画面に没頭する彼らが羨ましい。私の神経は研ぎ澄まされすぎて、耳の奥で、その青い光と唸り音がどんどん増幅していくような気がした。
「カチッ、カチッ……ブゥゥゥン……」
まるで、何かが内側から壁を這い上がってきているような、そんな重い振動音。青い光は、点滅しているのか、脈打っているのか、不規則に強弱を繰り返している。薄暗い店内で、その光と影が重なって、壁に奇妙な模様が浮かび上がる。まるで、読めない文字のような、あるいは何かを象徴する不気味な記号のような……。全身の毛が逆立つ。もう、ここから逃げ出したい。でも、仕事は。Wi-Fiは。このままじゃ何もかも終わってしまう。
意を決して、私はゆっくりと席を立った。足元が覚束ない。膝が震えている。青い光の源へ、一歩、また一歩と近づいていく。カウンターの奥。通路の入り口手前。その壁際の、高さ一メートルほどの荷物棚の裏側。そこは、普段なら誰も気に留めないような死角だった。
恐る恐る、棚の隙間に顔を突っ込む。
「は……?」
青い光は、そこから漏れていた。唸り音も、カチカチという機械音も、重い振動音も、全てそこから発せられていた。そこに、埃をかぶった黒い箱が、ひっそりと置かれていたのだ。いくつものアンテナが伸び、青いLEDが点滅している。明らかに、それは──
「Wi-Fiルーター……?」
故障しているのか、異常な熱を帯びた本体から、ファンの異音が唸るように響き、通信を示す青いランプが狂ったように点滅していた。その振動が、壁を通して響いていたのだ。カウンターの裏手の、荷物と荷物の隙間に押し込まれて、ほとんど見えないように。
私は、その場でへなへなと座り込んだ。恐怖と、情報断絶の焦燥感から解放された安堵と、そして自分の間の抜けた勘違いに対する自嘲が、ごちゃ混ぜになって押し寄せる。
「ああ、何やってんだ、私……」
Wi-Fiルーターの故障。それだけのこと。まるで、世界から見捨てられたかのような絶望感に苛まれていたのは、ただの機械の誤作動だった。胃の痛みはまだ残っているけれど、先ほどの吐き気は消え失せていた。青い光と不気味な音が、ただのルーターの故障だったなんて。そして、そのルーターは、他の客には全く気にも留められない、ただの「備品」として、ひっそりとそこに「死角」に存在していた。
私は深いため息をつき、再び自分の席に戻った。PC画面にはまだ「接続できません」の文字。でも、もういい。今は、この情報断絶の恐怖から一旦解放されたことで、かえって妙な落ち着きを取り戻していた。今度は、店員を呼ぼう。そうしよう。そうすれば、またあの情報の波に戻れる。今は、それだけで十分だ。世界は、まだ私を拒絶していなかった。ただ、ルーターが壊れていただけ。それだけだったのだから。