
「頼む、無事でいてくれ……」
錆びた金属のドアを押し開けて、湿気と塩素の匂いが鼻腔を突き刺す。深夜のプール施設は、どこもかしこも薄暗く、誰もいない。俺の足音が、コンクリートの床に不気味なほど響き渡る。心臓がドクドクと不快に脈打ち、その振動が全身に伝わる。もう三十路も半ばだというのに、こんな夜中に走ってきて、肺が痛い。息が上がって、喉の奥がカラカラに乾いている。
なんで、なんであいつはこんな時間に、こんな場所にいるかもしれないんだ。連絡が取れない。たったそれだけのことで、俺の頭の中は最悪のシナリオで埋め尽くされている。ひょっとして誰かに連れて行かれたんじゃないか。水に落ちてしまったんじゃないか。ああ、考え出すとキリがない。早く、早く見つけないと。あの小さな体が、こんな冷たい場所で一人きりだなんて、想像しただけで胃液が逆流しそうだ。
メインプールの薄暗い空間に踏み込むと、水面が非常灯の光を反射して、不気味に揺らめいている。水温は低いだろう。もし落ちていたら、と考えると、全身の毛穴がぶわっと開くような悪寒が走る。頼むから、どこかの隅っこで丸まって寝ていてくれ。それだけでいい。
窓ガラスの向こうは、漆黒の闇に包まれている。何も見えないはずなのに、ふと、ガラスの表面に奇妙な影が浮かび上がっているのに気づいた。何かのシミか? いや、違う。それはまるで……人の手形のように見えた。ガラスに張り付いたような、黒い影。
ごくり、と唾を飲み込む。背筋が凍る。風が遠くでヒューヒューと鳴り、施設内のあちこちで古い換気扇か何かが低い唸り声を上げている。その音が、まるで誰かの息遣いのように聞こえて、皮膚が粟立つ。まさか、誰かいるのか? 俺以外に。それとも、あいつが……?
「おい、いるのか!」
声が震える。自分の声が、こんなにも頼りなく響くなんて。いや、そんなことはどうでもいい。今はあいつのことだけだ。窓の外の影から目を離せない。その影が、動いた。ゆっくりと、しかしはっきりと。形を変え、また元の手形のような形に戻る。また、動く。
心臓がもう喉まで飛び出しそうだ。これは、誰かが窓の外から覗いているのか? それとも、俺の子供が……あいつが、助けを求めてガラスを叩いているのか? その可能性が、俺の頭の中を占拠する。この世の終わりだ。俺が、俺がもっと早く来れば。なんで、なんでこんな時に限って、俺のスマホの電池は切れかかっているんだ。誰にも連絡できない。この状況を誰かに伝えられない。
頭の奥がズキズキと痛み出す。疲労と、この極限の焦燥感が、俺の神経を蝕んでいる。視界が歪む。影は、まるで生きているかのように、伸びたり縮んだり、形を変え続けている。間違いなく、あれは手だ。誰かの手が、俺を、いや、あいつを探している俺を嘲笑っているかのように、そこに存在している。
頼む、頼むから、俺の目の前に現れてくれ。怒らないから。ただ、無事な姿を見せてくれ。
恐怖に支配されながらも、必死で目を凝らす。ガラスの表面に映る影だけでなく、その向こう側、漆黒の闇のさらに奥を、食い入るように見つめた。そして、その時だった。風が、また強く吹き抜けた。
窓の外に、何かが動いているのが見えた。薄暗い光の中で、それは白く、ぼんやりとした塊だった。風に煽られ、ひらひらと舞い、ガラスに「バサッ」と音を立てて当たっては、また離れる。そのたびに、ガラスに映る影が、手形のように歪み、形を変える。
白い塊……それは、洗濯物だった。
プールの清掃員が、夜間のメンテナンス作業を終えて帰ったばかりなのだろう。脱水機から出されたばかりの濡れたタオルや、使用済みの水着などが、適当にロープにかけられていたか、あるいはそのまま放置されていたか。それが、深夜の風にあおられて舞い上がり、窓ガラスにぶつかっていたのだ。影と、ガラスの表面に残った水滴やシミが重なり、薄暗い中でそれが俺の焦燥を煽る「手形」に見えていたに過ぎなかった。
なんだ、これ。
力が、一気に全身から抜けていく。膝が笑い、その場にへたり込みそうになるのを必死で耐えた。安堵、というよりは、あまりの馬鹿馬鹿しさに脱力感が半端じゃない。俺は、こんなくだらない幻影に、あいつの無事を願う焦りのあまり、まんまと踊らされていたのか。
はは、と乾いた笑いが漏れた。情けない。まったく、情けない。
だが、これで終わりじゃない。ここは違う。あいつはここにいなかった。じゃあ、どこにいる?
まだ、俺の焦燥感は消え去らない。いや、むしろ、別の場所を探さなければならないという焦りが、再び全身を駆け巡る。どこだ、あいつはどこにいるんだ。また、どこかの馬鹿げた場所で、俺を心配させているのか。早く、次の場所へ向かわなければ。この汗と塩素の匂いにまみれた場所から、一刻も早く。