
膝が軋む。もうずいぶん前から、いや、半世紀近く生きているんだから当然か、この体は錆び付いた機械のようだ。深夜の廃病院。埃とカビの匂いが鼻腔を突き刺す。薄暗い廊下、湿った空気が纏わりつく。一体、俺は何をやっているんだろうな。こんな薄汚れた場所で、誰に、何を期待しているわけでもないのに。
ここ数日、俺はここをねぐらにしている。別に探索しているわけじゃない。ただ、誰とも顔を合わせたくなかった。長年積み重ねてきた懐疑心が、もう俺の心を蝕んで、絶望的な孤独感しか残っちゃいない。どうせ、誰も俺のことなんて気にも留めやしない。この世の中に、俺を繋ぎ止めるものなんて、もうどこにもないんだ。
そんな俺の、唯一の「繋がり」だったはずのスマートフォンが、突然、ブツリ、と途切れた。Wi-Fiマークが消え、画面上部に「接続が不安定です」だの「信号が途切れました」だの、無機質な警告が並ぶ。チッ。頼みの綱まで途切れるか。まるで俺の人生みたいだな。スマホの奥から、乾いた電子音が不規則に響き、やがて不快な振動音に変わる。古い電子レンジが壊れる寸前のような、耳障りな音だ。
周囲は、俺の老眼と相まって、余計に視界が悪い。埃が舞い、僅かな光の筋にキラキラと反射している。それがまるで、薄い霧のように見えるんだ。幻覚か? いや、俺の目が悪いだけだろう。どうせ、この世界だって、俺の目には歪んで映っているんだ。
「…またかよ」
独りごちる。喉の奥から乾いた咳が漏れる。この胸の奥にへばりついた重い塊は、一体いつになったら消えてくれるんだろう。Wi-Fiの接続状況は、まるで俺の気分みたいに不安定だ。繋がったかと思えば、すぐに途切れる。その度に、俺の心臓は妙にざわつく。何が隠されている? ここに? いや、俺の心の中に、とでも言いたいのか?
膝の痛みがじわりと広がる。胃のむかつきも収まらない。最近は、食べたものが逆流してくるような不快感が常に付きまとっている。こんな体で、一体どこへ行けというんだ。しかし、この場に留まっているのも嫌だ。重い足を引きずり、廊下を歩き出す。一歩踏み出すたびに、床板がギシギシと音を立てる。まるで、俺の体から発せられる悲鳴のようだ。
薄暗い廊下を進んでいくと、正面の壁に、不意に巨大な影が浮かび上がった。埃と湿気、そして俺の歪んだ視界が作り出したのだろう。それはまるで、長年俺の背中にへばりついてきた、得体の知れない存在のようだった。心臓がドクンと跳ねる。しかし、それも一瞬だ。どうせ、俺の錯覚だろう。俺の人生は、常に錯覚と裏切りの連続だった。
ゆっくりと近づいていくと、その「影」が、壁一面を覆う妙にテカテカした等身大のポスターであることが判明した。なんだこれ。こんな廃病院に、こんなものが? ポスターの表面をよく見ると、鈍い光を反射する金属箔のようなものが使われている。触ると、ザラザラとした質感だ。
「ああ、そうか」
思わず、乾いた声が出た。前に、このあたりで期間限定の「現代アート作品展」とかいうものが開催されたと、耳にしたことがあった。きっと、その残骸だろう。作品撤去作業中に、こんな隅っこに忘れ去られていたに違いない。世の中なんて、いつもこんなものだ。誰かの都合で置かれ、誰かの都合で忘れ去られる。俺の人生と、何ら変わりはない。
ポスターの向こう側から、ジリジリと微かに聞こえていた電子音が止んだ。スマホの画面を見やると、Wi-Fiマークが安定して表示されている。原因はこれだったのか。金属箔が電波を遮っていた、ただそれだけの、あまりにも馬鹿馬鹿しい理由。
「フン……」
乾いた笑いが漏れた。こんな些細なことで、俺は恐怖したり、安堵したりしていたのか。情けない。Wi-Fiが繋がったところで、俺の孤独感が消えるわけでも、この膝の痛みがなくなるわけでもない。結局、俺は一人で、この薄汚れた廃病院で、何も変わらず、ただ存在しているだけだ。また一つ、俺の懐疑心に、世の中のくだらなさが加わっただけのことだ。この絶望的な孤独感に、もう慣れっこになってしまった。