深夜ジム、底なし沼、消えない謎札

まったくもう、何だってこんな歳になって、夜中のジムでこんな目に遭わなきゃいけないのかしらね。最近、体のあちこちが軋むようになって、医者から「少しは運動しなさい」なんて言われたもんだから、渋々始めたのよ。昼間は人が多くて気恥ずかしいから、誰もいない深夜を狙ってね。静かで集中できるかと思いきや、これがまた、余計なことを考えさせるのよ。

数日前から、私のボストンバッグの奥底に、見慣れない荷物札が紛れ込んでいるのに気づいた。茶色くて、少しだけ擦れたプラスチックの、よくある空港の手荷物タグみたいなやつ。名前も住所も書いてない。ただ、小さな数字の羅列があるだけ。誰のものかしら? いつ、どこで、どうして私のバッグに入り込んだのか。もしかして、私が誰かの荷物と間違えた? いや、私のバッグはいつも同じだし、そんな見慣れない荷物、持ち帰るはずがない。誰かが、私のバッグに意図的に入れた? そんなことを考え始めると、胸の奥がざわついて、落ち着かないったらありゃしない。この年齢になって、こんな変なものを持ち歩いているなんて、まるで隠し事をしているみたいで、胃のあたりがずしんと重い。気持ち悪いったらありゃしない。

今夜も、ジムに着くと、案の定、私以外に誰もいない。広い空間に、ただトレーニング器具がずらりと並んでいて、照明だけが煌々と灯っている。妙に静まり返っていて、自分の呼吸の音や、ウェアが擦れる音さえも、やけに大きく聞こえる。ストレキッチで軽く体を伸ばしながら、ふと、ポケットに入れた荷物札の感触を確かめる。薄っぺらいプラスチックの質感が、指先に張り付くようで、ぞわっと鳥肌が立つ。早く持ち主に返さなきゃ、でも、誰の? 返し方がわからない。この不安が、体のあちこちを蝕んでいくような気がするのよ。

その時だった。

「ごぽ……ごぽごぽ……」

どこからともなく、鈍くて、重たい音が聞こえてきた。まるで、底なし沼から何かがせり上がってくるような、不気味な音。排水溝の方からだ。男物の汗が染み込んだような、生臭い水が逆流するような、嫌な音がする。私は思わず体を硬くした。こんな夜中に、排水溝から? 自分の耳を疑いながら、もう一度、ポケットの荷物札を指先で弄ぶ。この不安が、余計に音を恐ろしく感じさせるのよ。

「ごぽ、ごぽごぽ……ぶぅん……」

音が止まらない。まるで、何か生き物が呼吸しているみたいに、定期的に、しかし確実に、その嫌な音は繰り返される。時折、低いモーターのような唸りも混ざるようになって、ますます不快感が増した。背筋がぞっとする。誰もいないのに、この音は何? 私だけが聞いているのかしら?

私は自分のバッグに駆け寄り、中身をひっくり返す勢いで確認した。こんな得体の知れないものが、私の荷物に入り込んでいるんじゃないかと、気が気じゃなかったのよ。でも、いつも通り、私の水筒とタオル、それにジムシューズが入っているだけ。荷物札は、いつものポケットの中。ああ、もう。こんな不安なものを持ち歩いているから、こういう変な音まで気になってしまうのかしら。膝の関節が、きゅう、と痛む。さっきから変な姿勢でいたせいね。疲れてくると、余計なことばかり考える。

音は、止まる気配がない。むしろ、段々と大きくなっているような気さえする。排水溝の奥から、黒い水でも溢れ出してくるんじゃないかしら。そんな想像をすると、胃のあたりがムカムカしてくる。私は、もうトレーニングどころじゃなかった。キョロキョロと周りを見回すが、当然、誰もいない。照明だけが眩しく、かえって孤独感を煽る。早く家に帰りたい。でも、この音の正体を知らないまま帰るのは、もっと恐ろしい気がした。まるで、何かに追いかけられているみたいで。

もう一度、音の発生源を探す。排水溝、排水溝……。でも、どうも違う気がする。音の響き方が、壁や床から伝わってくる、というよりは、もっと手前、何かの裏側から聞こえてくるような、そんな感じがした。

「ぶぅん……ごぽごぽ……」

その時、ジムの入り口近く、清掃用具置き場の影に、やけに大きな段ボール箱が置いてあるのが目に入った。これまでも何度か見かけたことはあったけれど、こんな夜中に、こんな音がするなんてこと、なかったはずだわ。私の胸はドクドクと不規則に脈打つ。もしかして、あの音の源は……。

恐る恐る、一歩、また一歩と近づいていく。足の裏から、冷たい床の感触が伝わってくる。箱の裏手に回り込むと、壁のコンセントに、一本の細いコードがしっかり差し込まれているのが見えた。そして、箱の側面には、宅配便のロゴが入った大型の保冷ボックスが鎮座していた。その保冷ボックスに、小さな機械が取り付けられていて、それがぶるぶると震えながら、あの不気味な音を立てていたのだ。冷却ポンプ? 冷蔵品を配送するための機械?

ああ、もう、まったく。

荷物を受け取るはずだった誰かが、そのまま忘れて帰ってしまったのだろう。夜中に受け取るはずだった誰かの、冷蔵品。まさか、ジムの片隅に、こんなものが放置されているなんて。あの排水溝から聞こえていたような、生々しい逆流音も、ポンプが水を吸い上げる音だったんだわ。物理的な共通点? そんなこと、言われなくてもわかるわよ。

私は、一瞬呆然として、それから、ふっと力が抜けて、笑い声が漏れた。はは、ははは。情けないったらありゃしない。こんなことで、こんなに怯えていたなんて。肩の力が抜けると、どっと疲れが押し寄せてきた。

でも、そういえば。

ポケットに入れた、見知らぬ人の荷物札。まだ、この手の中に、薄っぺらいプラスチックの感触が残っている。あの音の正体はわかったけれど、この荷物札の正体は、いまだにわからないまま。一体、誰のものなのかしら。こんな変なものを、この歳になってまで持ち歩いているなんて、本当に、まったくもう。重い足を引きずりながら、私はジムの出口に向かった。妙な疲労感と、まだ解決しない不安を抱えたまま、深夜のジムを後にする。まったく、不思議な夜だったわ。