深夜の田んぼ、インターホンが鳴る

くそ、一体何なんだ。時刻はもう午前二時を回っている。この田んぼのあぜ道は、昼間だってろくに人の気配がないってのに、こんな真夜中になればそれこそ漆黒の闇だ。街灯もまばらで、足元は雨上がりのせいでぬかるんでいる。革靴が泥を吸って、じっとりとした不快感が足の裏から全身に這い上がってくるようだ。

さっき、会社の後輩から携帯に連絡があったんだ。メッセージアプリの通知音じゃなくて、わざわざ電話。こんな時間に、一体何事だってんだ。普段から段取りが悪い奴で、頼んでもないのに勝手に残業して、そのくせ締め切りギリギリになって「すみません、できませんでした」とか平気で言いやがる。ああ、胃のあたりがむかむかしてきた。またあいつが何かやらかしたのか? それで俺が尻拭いさせられるのか? 明日も朝から会議があるってのに、こんな時間に起こされちゃたまったもんじゃない。せっかく寝付いたばかりだったんだ。

遠く、薄ぼんやりとした光が一つ、闇の中に浮かんでいるのが見える。あれは何だろうな。気にはなるが、今はそれどころじゃない。携帯を握りしめ、画面を凝視する。既読はついているが、返信がない。おい、まさか本当に何かあったのか? 俺が寝てる間に、会社のシステムでもぶっ壊したのか? いや、それとももっと個人的なトラブルで、警察沙汰とか……? 頭の中で悪い想像ばかりが膨らんでいく。

その時だ。「ガタッ」と、何かが不意に揺れるような、重い音がした。間髪入れずに「バチッ」と、どこか遠くでスパークでもしたかのような、乾いた電子音が響く。心臓が飛び跳ねた。なんだ、今の音は? 耳を澄ます。再び「ガタッ、バチッ」と、今度は少し間を置いて。

「インターホン…?」

思わず声が出た。いや、まさか。こんな田んぼの真ん中に、インターホンなんてあるわけがない。だが、あの「ガタッ」という響きが、どこか古びた玄関の扉が風で揺れる音に似ていて、その直後の「バチッ」という電子音が、妙にチャイムのそれと重なった。深夜の静寂が、音のわずかな差異を増幅させる。

まさか、会社がこんなところまで俺を呼び出したのか? 後輩が、俺の家まで来られなくて、こんな場所で立ち往生しているとか? 頭が痛くなってきた。どうして俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。あいつの尻拭いなんてまっぴらだ。

携帯を耳に当てたまま、じっと音を待つ。また鳴る。不規則に、「ガタッ、バチッ」。

「ああ…何か間違ったことでも起こってるのか? 後輩が、本当に大変なことに巻き込まれてるんじゃないのか?」

頭の中では後輩の安否よりも、明日の自分の仕事量、そして何より睡眠が奪われたことへの憤りが渦巻いていた。もし、あいつが本当に何かやらかして、俺がまた休日出勤にでもなったら……。考えるだけで吐き気がする。肩が凝って、首筋が締め付けられるようだ。早くこの不快な音を、そしてこの胸騒ぎを終わらせたい。

疲れた目を擦りながら、周囲を見渡す。音はあの薄ぼんやりとした光の方から聞こえてくるようだ。泥に足を取られながら、ゆっくりとそちらに近づいていく。暗闇に目が慣れてくると、光の正体がぼんやりと見えてきた。それは、草木に半分埋もれるようにして立っている、工事現場の看板だった。

「なんだ…? あれは…?」

さらに近づく。近づくにつれて、音の正体もはっきりしてきた。あの「ガタッ」という音は、風にあおられた看板の金属製の脚が、土台のブロックに不規則にぶつかる音だ。そして「バチッ」という電子音は、看板に備え付けられたLEDライトの安定器が劣化した音か、あるいはその脇に無造作に転がされていた仮設電源の、むき出しのコードがわずかにスパークする音だった。泥だらけの電源コードが、地面を這う蛇のように見えて、生理的な嫌悪感が募る。

看板には、薄汚れた文字で「24時間作業中」と表示されている。ああ、これか。これが「インターホン」の正体か。夜中に田んぼのあぜ道に立って、こんなガラクタの出す音を「インターホン」と勘違いしていたとは。

虚しい笑いが込み上げてきた。はは、ははは。乾いた笑いだ。俺も大概疲れてるんだな。こんなくだらない音に、こんなに振り回されるなんて。そして、「24時間作業中」か。俺も、まるで24時間、仕事のことで頭を悩ませて生きているようなもんだ。こんな真夜中にまで、会社の後輩の電話一つで叩き起こされて、こんな場所でインターホンと勘違いした音に怯えている。

結局、後輩からの連絡には返信がなかった。明日の朝、一体どんな顔をして出社すればいいんだか。この泥だらけの革靴で、またあの薄汚れたオフィスを歩くのか。ああ、頭痛がひどい。胃のむかつきも治まらない。このまま倒れてしまいたい気分だ。家路を急ぐ足取りは、来た時よりも重かった。まだ、あの後輩の件が、ずっと頭の片隅にこびりついている。