闇夜のモール、記憶が哭く

ああ、またここに来てしまった。閉店間際のショッピングモール。フロアの照明は半分以上落とされて、人気の無い通路は妙に薄暗い。仕事帰りのこの時間、わざわざこんな場所へ来るなんて、本当に馬鹿みたいだ。でも、あのプレゼン資料、今日中に仕上げなきゃいけないのに、USBメモリを会社に忘れてきてしまったんだから仕方ない。デスクの引き出しに、たしか、あの日のまま仕舞いっぱなしだったはず……。

胃がキリキリと痛む。もう何年も前のことなのに、この場所に来ると、決まって胸の奥がざわつく。友人が事故に遭ったのは、このモールの、あのエスカレーターの近く。あの時の光景が、フラッシュバックみたいに目の裏に焼き付いている。血の匂い、救急車のサイレン、そして、私を責めるような周囲の視線。私は、あの時、もっと何かできたはずなのに。今でも、そのことを考えると、全身から嫌な汗が吹き出してくる。この歳になっても、まだこんなに臆病な自分が情けない。足の裏が妙にべたついて、重たい。早く終わらせて、家に帰って、熱いシャワーを浴びて、全部洗い流したい。

通路の奥から、どこか湿った、変な音が聞こえてくる。「ヒュー、ヒュー……」まるで誰かが苦しそうに息を吐いているような、あるいは、嗚咽を漏らしているような。気のせいだろうか? 疲れているんだ。今日は一日中、神経をすり減らすような仕事ばかりだった。きっと、どこかの換気扇の音か、清掃業者が使っている機械の音に違いない。そう、そうに決まっている。けれど、私の心臓はドクドクと不規則に跳ねて、嫌な予感ばかり募る。あの時も、こんな風に嫌な予感がしたんだ。

歩を進めるたびに、その音は少しずつ、しかし確実に大きくなっていった。薄暗い通路の向こう、照明の届かない死角から、その音は響いている。耳を澄ますと、まるで風邪をこじらせた子供が、息を詰まらせて泣いているような、そんな生々しい響きに聞こえてくる。喉の奥がヒリヒリして、唾液を飲み込むのも億劫だ。

「誰か、いるの……?」

思わず声に出して尋ねたが、返事はない。あたりは相変わらず薄暗く、店じまいしたシャッターが並ぶばかり。人気の無さが、かえって音を増幅させているような気さえする。恐怖よりも、あの時の、あのどうしようもない無力感と後悔が、私の判断力を鈍らせる。もし、あの時、私がもっと早く気づいていれば。あの時のように、また誰かが、目の前で苦しんでいるんじゃないか? そんな妄想が頭の中で渦巻いて、足が勝手に音のする方へと向かっていく。汗が止まらない。シャツが背中に張り付いて、気持ち悪い。

音の元は、かつて小さな喫茶店だった場所のようだ。今はシャッターが半分降りて、奥はほとんど見えない。しかし、その隙間から、はっきりと「ヒュー、ヒュー、うぅ……」という、すすり泣きにも似た音が漏れ聞こえてくる。

勇気を振り絞って、シャッターの隙間から中を覗き込んだ。埃っぽい空気と、古い油のような匂いが鼻腔を刺激する。店内はさらに暗く、奥の方にわずかな光が見える。その光が揺れるたびに、壁に奇妙な影が踊っていた。棚の隙間に、何かの輪郭が見える。それが、まるでうずくまって泣いている人影のように見えて、心臓が痛いほど脈打った。影とシミが重なり合って、そう見えただけだ。そう自分に言い聞かせても、一度植え付けられた恐怖は、私の思考を支配する。

「誰か、いるの?」もう一度、今度は震える声で尋ねた。

返事はない。しかし、音は確かにそこから聞こえている。私は、もう引き返せない、そんな気がした。あの日の自分と同じだ。何もできないまま、ただ立ち尽くすことしかできないのか。この歳になっても、まだこんなに弱々しい自分が嫌いだ。

意を決して、シャッターの隙間を押し広げ、中へ踏み込んだ。埃が舞い、むせ返る。薄暗い店内の奥、カウンターの隅に、簡素な献花台が置かれていた。その上には、チカチカと不気味に揺れるLEDろうそく。その頼りない光が、影を不気味に作り出す。そして、その献花台のすぐ脇に、古びた業務用の冷蔵庫が置いてあり、そのコンプレッサーが、まるで湿った肺が呼吸をするかのように、「ヒュー、ヒュー」と異音を立てていた。献花台のLEDろうそくは、壁のコンセントから伸びた延長コードに繋がっている。なるほど、清掃作業員か、閉店作業の従業員が、ここで故人を偲ぶための仮設の台を設置したのだろう。

音の正体は、ただの機械の異音。それだけだ。

私の体から、一気に力が抜けていく。どっと疲労感が押し寄せ、その場にへたり込みそうになった。安堵感と共に、深い自己嫌悪が込み上げてくる。こんな、ただの機械音に、ここまで怯え、過去のトラウマを引っ張り出して、勝手に苦しんでいたなんて。

結局、私はあの日のまま、何も変わっていない。ちょっとした音や影に、すぐに過去の亡霊を見てしまう。あの友人の事故から、もう何年も経つというのに。ふと、手のひらを見ると、冷たい汗でぐっしょり濡れていた。全身がだるい。胃の痛みも、胸のざわつきも、まだ消えてはいない。この生理的な不快感は、この先もずっと、私の身体にこびりついて離れないのだろう。はぁ、最悪だ。早く、早く帰りたい。この、埃っぽい、湿った空気が、肌にまとわりついて離れない。