
また、夜。この、息苦しい夜が来た。一体何日目の夜だろう。数えようにも、もう数字が頭に入ってこない。ただ漠然と、永遠にも思える時間が流れて、私の体だけがそこに置き去りにされている。子供がいなくなってから、ずっとそうだ。私の体は、ただの抜け殻。
この古びた団地の窓から外を眺める。錆びついた給水塔が、ぼんやりとした街灯の光に浮かび上がっている。あの塔の向こうに、あの子はいるのだろうか。どこにいるの?どこへ行っちゃったの、私のたった一人の……。
喉の奥がヒリヒリする。もう何日もまともに食事も喉を通らないし、泣きすぎて水分も枯れてしまったみたいだ。目蓋は鉛のように重いのに、眠ることは許されない。許されるはずがない。あの子が帰ってこないのに、私が眠れるわけがない。
ふと、部屋の隅から、いや、床のそこかしこから、何かが這うような音がした。
「スサッ……、スサッ……」
最初は、耳鳴りかと思った。最近は、いつも耳の奥で、遠いサイレンのような音が鳴り響いているから。でも、これは違う。これは、もっと生々しい。何か薄っぺらいものが、ざらついた床をゆっくりと引きずられるような、不気味な音だ。こんな時に、また、こんな音。私の心臓は、ただでさえ重たいのに、さらに重りをつけられたみたいにドクンと鳴った。
まさか。あの子が、帰ってきた?
いや、そんなはずない。もしそうなら、もっと大きな物音がするはずだ。ドアを叩くとか、名前を呼ぶとか。この音は、もっと、陰湿だ。
「スサッ……スサッ……」
音は、私の部屋の奥から、リビングの方へ、そして窓の方へとゆっくりと移動しているように聞こえる。いやだ。こんな時に、こんな薄気味悪い音を聞かされるなんて。私に、これ以上何をさせようとするの?もう、何も残ってないのに。あの子がいなくなって、私の人生は、とっくに止まってるのに。
恐怖が、じわじわと足元から這い上がってくる。足の裏が冷たい。こんな状態なのに、まだ恐怖を感じるだけの余裕が私には残っていたのか。いや、これは恐怖じゃない。これは、あの子がどこかでこんな音に怯えているのではないかという、想像からくる絶望だ。
私は震える手で窓を開けた。冷たい夜風が頬を撫でる。外は、漆黒の闇に包まれていた。団地の外灯も、この時間になるとまばらで、ほとんど何も見えない。
「何も……ない……」
呟く声は、ガサガサにかすれていた。
音は、止まらない。むしろ、だんだん大きくなっている気がする。
「スサッ、スサッ、スサササッ……」
まるで、何かが私を誘っているかのように。外へ、もっと外へ、と。
私には、もう考える力なんて残ってない。ただ、その音に引きずられるように、ふらふらと団地の外へ出た。足が重い。鉛のようだ。まともに歩けているのかもわからない。それでも、この音の正体を突き止めないと、私は気が狂ってしまう、というより、もうとっくに狂っているのかもしれない。
どこかで、あの子が私を呼んでいるような気がした。この音の向こうに、あの子がいるんじゃないか。そんな、ありもしない希望に、私の体は勝手に動く。
給水塔の足元まで来た。錆びた鉄骨が、夜空に不気味な影を落としている。ひんやりとした空気が、私の肌を刺す。喉の奥がまたヒリヒリする。このまま、ここで倒れてしまっても、誰も見つけないだろう。誰も、私を心配なんてしない。あの子さえいれば、あの子さえいれば、こんなことには……。
「スサッ……」
まただ。今度は、すぐ近くから聞こえた。給水塔の、影の奥。
私は、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。何かいる。本当に、何かがそこにいるんだ。
目を凝らす。暗闇に、何かの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
風が、ふっと向きを変えた。その瞬間、給水塔の足元にあった、薄っぺらい人影のようなものが、ずるりと横に滑った。
「スササササッ!」
音の正体は、それだった。
目を凝らして、ようやくわかった。それは、団地の外にある24時間営業の定食屋が、夜間割引の宣伝のために立てている、等身大のパネルだった。店員らしき女性が、満面の笑みで「夜定食半額!」と叫んでいる。それが、給水塔の影に隠れて、風に煽られて、地面を僅かにずるずると滑っていたのだ。
昼間は、店の前に置いてあったはずなのに。いつの間に、こんな場所へ。きっと、誰かが邪魔だからと、ここに移動させたのだろう。そして、夜の静けさと、私の狂った精神状態が、その音を「何か不気味なもの」へと変貌させていたのだ。
全身から、力が抜けた。膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとか踏みとどまる。
こんな、くだらないものに、私はこんなにも怯えていたのか。そして、こんなくだらないことに、私の貴重な時間を、また使ってしまった。
あの子を探すための、一分一秒を。
無駄な時間。また、無駄な時間。
私の体は、もう何日もまともに休んでいない。まともに食事もしていない。こんな、くだらない音のせいで、さらに体力を消耗した。
こんなこと、あの子が帰ってくることには何の関係もない。ただ、私は、無意味に夜の闇を彷徨い、また一つ、疲労を重ねただけだ。
視線を、再び給水塔の頂上へ向ける。あの子は、どこにいるの。もう、あの子の顔が、時々、ぼやけて見えたりする。声も、思い出せないことがある。
このまま、私から、あの子の全てが消えてしまうのだろうか。
夜風が、冷たく、私の頬を打ち続けた。