「お疲れ様です」仏壇が囁く

午前三時を回ったオフィスは、シンと静まり返っていた。蛍光灯の不健康な光が、私の脂ぎった顔と積み重なった資料をぼんやりと照らしている。ディスプレイの文字が歪んで見えて、もう何時間も瞬きを忘れている目尻がピクピクと痙攣していた。締切は明日。胃の奥からキリキリと痛みが這い上がってくるのがわかる。コーヒーは冷えきって、鉛のような味がした。こんな時間に、こんな場所で、私一人。孤独感が、疲労と相まって、じっとりと肌に張り付く。

オフィスの片隅、誰も使わない応接スペースの奥に、その仏壇は鎮座していた。正確には、先月、実家から「これからはAIの時代よ」とかなんとか言って送りつけられてきた、妙に近未来的なデザインの「スマート仏壇」とやらだ。黒光りする筐体は、この薄汚れたオフィスには不釣り合いで、見るたびにいっそ電源を抜いてしまおうかと思う。実際、電源コードは壁のコンセントにしっかりと繋がっているのが、暗闇でもうっすらと確認できた。家族は「夜間モードにすると、先祖の安らかな声が聞けるのよ」なんて言っていたが、誰がそんなもん聞くか。ただでさえ、こんな時間に「突然の仏壇の音声メッセージに怯え」ているのに。

カタカタとキーボードを叩く指先が、もう自分の意思とは関係なく動いているようだった。集中力が途切れて、意識がふわふわと浮き上がる。その時だった。
「お疲れ様です」
背筋が凍りついた。心臓がドクン、と大きく跳ねる。全身の毛穴がぶわっと開くのが分かった。耳の奥で、低い金属音が反響する。
Siriか? スマホか? 私のPCからか?
慌ててデスクの上を漁るが、そこにあるのは冷えたマグカップと、もうぐちゃぐちゃになった資料の山だけだ。どこにもスマホはない。そもそも、Siriにそんな気の利いたこと言われたことない。吐き気がする。こんな、こんな状況で、誰かに声をかけられるなんて、冗談じゃない。

再び、あの声が響く。今度は、少し間があった。
「君も疲れただろう?」
頭が割れるかと思った。ゾクリと、背中を冷たい汗が伝う。恐怖で、手足の震えが止まらない。どこからだ? どこから聞こえる?
暗闇の中、目が慣れたオフィスを見回すと、仏壇のスピーカー部分が、まるで私のスマホのそれのように、暗闇にぼんやりと浮かび上がって見えた。まさか、あれが……?
「静かに休もう」
声が、妙に響く。まるでオフィス全体が薄暗く沈み込んでいくような、そんな錯覚に陥った。疲労で視覚までおかしくなっている。肩は岩のように凝り固まり、目の奥がズキズキと痛む。もうダメだ。本当に、本当に限界だ。こんな、こんな「突然の仏壇の音声メッセージに怯え」て、まともに仕事ができるわけがないだろう。喉の奥がヒリヒリする。声を出そうにも、何も出ない。ただ、自分の心臓の鼓動だけが、ドクンドクンと耳の中でうるさく鳴り響いていた。

その時、ガチャン、と鈍い音がして、オフィスのドアが開いた。心臓が文字通り飛び出るかと思った。
「すいません、こんな時間に」
男性の声が聞こえる。一瞬、悲鳴を上げかけたが、かろうじて抑え込んだ。
「このフロア、どうも電力供給の不具合が出てまして、緊急で点検に来たんですよ。深夜に申し訳ない」
懐中電灯を持った作業着の男性が、私に会釈した。よかった、人間だ。安堵で膝の力が抜ける。そのままへたり込みそうになった私を見て、男性が怪訝そうな顔をする。
男性は、オフィスの配電盤をチェックしながら、不意に仏壇のほうへ近づいていった。
「ん? ああ、これですね。夜間モードと音声メッセージがONになってる。しかも、このスイッチ、ちょっと奥まったところにあるから、気づきにくいんですよね。これで電源落ちてたら、そりゃ不具合も出ますわ」
男性は、仏壇の筐体の、言われてみれば確かに分かりにくい、裏側のくぼみに指を突っ込んで、カチリ、と小さなスイッチを切り替えた。途端に、オフィスに重い静寂が戻る。

ああ、そうか。これだったのか。
私は、全身の力が抜けて、ぐったりと椅子に凭れかかった。恐怖に震えていた自分が、馬鹿みたいで、情けなくて、恥ずかしかった。と同時に、安堵と疲労が津波のように押し寄せてきて、目頭が熱くなった。
男性は「お疲れ様でした」と言って、また点検に戻っていった。
私は、もう一度、仏壇を見た。先ほどまで、あんなに私を怯えさせていた、不気味な塊。今はただの、埃を被った家電製品にしか見えない。
結局、こんなくだらないことで貴重な残業時間を無駄にし、精神を削られ、胃を痛め、肩を凝らせていたのか。最悪だ。
まだ、胃のむかつきは治まらない。頭痛も、目の奥の痛みも。
私は冷えきったコーヒーを一口飲み、ディスプレイの文字を睨みつけた。あと少し。あと少しだけ、頑張らなければ。
「突然の仏壇の音声メッセージに怯え」ていた数時間を、私は決して忘れないだろう。
そして、この忌々しい仏壇の電源を、明日の朝一番で抜いてやる、と固く心に誓ったのだった。