
クソッ、何なんだよこれ。俺は今、廃病院の薄暗い廊下を歩いている。足元がやけに冷たい。数日前から夜中に聞こえるようになった、あの「カチカチ」って音の正体を探しに。誰かに言えばバカにされるだろうけど、俺にはどうにも無視できなかった。だって、あの音、本当に気持ち悪いんだ。まるで、時間が止まる寸前の音、とでも言うか……。
胃のあたりが、ずっと鉛みたいに重い。吐きそうだ。何が俺をこんなとこにまで来させたのかって? それは、あの、能面だ。能面が、俺の頭の中に張り付いて離れない。夢にまで出てくる。顔が、表情が、何もない。なのに、とてつもない悪意をたたえているように見えるんだ。何も見えない、何も理解できない。それが、俺を絶望の淵に突き落としている。この世の終わりだ。世界は終わった。俺の人生も終わった。
廊下の先、一番奥の部屋から、かすかに、あの音が聞こえてくる。鼓膜の奥を直接叩かれるような、硬質なリズム。薄暗闇の中、俺はスマホのライトを頼りに、その部屋の扉を押し開けた。錆びた蝶番が、ぎぃ、と情けない声を上げる。その音すら、俺の耳には神経を逆撫でする悲鳴に聞こえた。
部屋の中は、埃とカビの匂いが混じり合って、息をするのも苦しい。なのに、その臭いの奥から、あの「カチカチ」という音が、はっきりと聞こえてくる。
俺はライトを向けた。部屋の中央に、それはあった。木製の台座の上に、白いものが。
能面だ。
息が、止まった。心臓が、喉元までせり上がってくる。ドクン、ドクンと激しく脈打ち、それがまた、別の「カチカチ」として俺の耳に響く。能面だ、能面がそこにある。
ライトの光が弱すぎて、能面の細かい部分は見えない。ただ、その顔の輪郭が、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。真っ白な顔。無表情。そして、その能面の、ちょうど目のあたりからだろうか、かすかに光が点滅している。チカ、チカ、チカ、チカ……。
その光の点滅に合わせて、あの「カチカチ」という音が鳴り響いているように感じる。いや、違う。光はただ点滅しているだけだ。音は、能面の中央、ちょうど鼻筋のあたりから聞こえる。
暗闇の中で、能面の歪な形が、まるで大きな時計の文字盤に見えてくる。目の部分は、まるで時間が刻まれた目盛りだ。その中央から、何かの拍子に「カチッ」と小さな音がする。まるで、秒針が動く音、いや、もっと無機質な、何かが噛み合うような、あるいは、小さな回路がショートするような音。能面に、こんな音がする仕掛けがあるのか? いや、俺が知らないだけで、能面には何か恐ろしい機能が隠されているのかもしれない。俺は、能面の正体が見えない恐怖で、もう限界だ。体中の血が凍り付いて、指先が痺れる。この恐怖から解放されたい。助けてくれ。
「カチ……カチ……」
音が、増えたような気がした。能面からだけじゃない。壁の向こうから、天井の隙間から、足元の影から。いや、違う。これは俺の耳鳴りだ。恐怖が極限に達して、脳が勝手に音を作り出しているんだ。胃の中のものが逆流しそうだ。口の中に酸っぱいものがこみ上げてくる。
能面だ。あの能面が、時間の流れを歪ませているのか? 俺の思考を、時間を、全てを狂わせているのか? 能面の、あの無表情な顔が、嘲笑っているようにさえ見える。何一つ理解できない。なぜ、ここに能面があるのか。なぜ、能面が音を立てるのか。なぜ、俺はここにいるのか。全てが、意味不明だ。能面の正体が見えない。この世の終わりだ。もう、本当に絶望しかない。
その時、俺は、全身の毛穴という毛穴から冷たい汗が噴き出すのを感じた。呼吸が荒くなり、視界が歪む。能面が、ゆらゆらと揺れているように見える。いや、俺の体が震えているんだ。恐怖で、足がガクガクと震え、もう立っていられない。能面があるという事実自体が、俺の存在を消し去ってしまうほどの絶望感だ。能面の正体が見えない。この世の終わりだ。
「……う、うぅ……」
喉から絞り出すようなうめき声が漏れた。もう、どうにでもなれ。
俺は震える手で、スマホのライトを、能面の真下に向けた。すると、能面の台座の奥、影に隠れるようにして、一本の黒いコードが伸びているのが見えた。そのコードは、部屋の隅にあるコンセントに、細い延長コードで繋がっていた。
「は……?」
俺は震える手で、能面を少しだけ持ち上げてみた。台座の下には、小さな四角い箱が、ガムテープで貼り付けられている。その箱は、手のひらサイズの小型の電子機器で、小さなディスプレイと、いくつかのボタンが付いていた。ディスプレイには、点滅する数字が表示されている。そして、その箱の内部から、小さく「カチ……カチ……」という音が、微かに聞こえてくる。どうやら、内部のリレーか、あるいは接触不良を起こした部品が、小さなスパーク音を立てていたようだ。能面の目のあたりで点滅していた光は、その機器に付いていた小さなインジケーターランプだった。
能面の横には、立てかけられた白いボードがあった。埃まみれだが、ライトを当てると文字が読める。
『伝統的な能楽師のワークショップ ~能面の歴史と制作体験~』
日程: ○月○日~○月○日
※最終日は撤収作業のため、一部展示品が残る場合がございます。
「……なんだ、これ……」
俺は、思わずへたり込んだ。全身の力が、一気に抜けていく。胃の中のむかつきも、喉の渇きも、冷や汗も、全てが嘘のように消え失せた。
能面の正体が見えない恐怖で絶望していた俺の人生は、何だったんだ。この能面は、ただのワークショップの展示品で、電源に繋がれたタイマーか何かを仕掛けられていた、ただの道具だったんだ。撤収作業がまだ終わってなくて、深夜まで放置されていた、それだけのこと。
……バカみたいだ。俺は、こんなもののために、廃病院に忍び込んで、死ぬほどの恐怖を味わっていたのか?
膝から崩れ落ちた俺の目に、能面の白い顔が映った。薄汚れてはいるが、何の変哲もない、ただの木製だ。
自己嫌悪で、顔が熱くなる。と同時に、安堵感が津波のように押し寄せてきて、体がだるい。もう、何もしたくない。このまま、ここで眠ってしまいたい気分だ。
能面。能面の正体が見えない恐怖で絶望状態だった俺は、結局、自分が一番能面だったのかもしれない。そう思った瞬間、俺は、乾いた笑いを漏らした。それは、恐怖の残滓が混じった、酷く情けない笑い声だった。