
ここ数日、ずっとだ。あの精米所の前を通るたびに、胃の奥がキュッと締め付けられるような不快感に襲われる。いや、不快感だけじゃない。過去のトラウマが蘇って、全身がブルブル震えるんだ。手足の先が氷みたいに冷たくなって、呼吸も浅くなる。こんな深夜に、まさか米を精米しに行くなんて、自分でもどうかしてると思う。でも、どうしても、あの場所で聞こえる不穏な音の正体を知りたかった。知らなきゃ、このままじゃ俺はまともに眠ることすらできなくなる。
精米所の重いドアを、ギギッと音を立てて開けた。中には、米の粉っぽい匂いと、機械油の独特な臭いが混じり合った、むっとする空気が充満している。蛍光灯の薄暗い光が、精米機や乾燥機といった大きな機械の影を長く伸ばし、それらがまるで生き物のように見えて、思わず息をのんだ。
と、その時だ。
奥の方から、微かな「カチ、カチ」という音が聞こえてきた。
心臓がドクン、と大きく跳ねた。全身の血の気が引いていくのがわかる。まるで、あの夜の、あの時計の音だ。俺を奈落の底に突き落とした、あのカチカチという、規則正しい、冷たい音。
「幻聴か…?いや、違う…」
俺は、自分の震える声に驚いた。音は定期的に、しかし不規則な間隔で聞こえてくる。精米所の隅に目を凝らすと、暗闇の中で何かの影がゆらゆらと動いているように見えた。精米機のゴツゴツとした影が、まるで人の形に見えて、俺は一歩後ずさった。過去のトラウマが、まるで腐ったチーズのように胃の中でドロドロと溶けて、喉元までせり上がってくる。吐きそうだ。
汗が手のひらにじっとり滲む。この震えが止まらない。俺は、まるで自分が操り人形になったみたいに、ぎこちない足取りで音のする方へ歩き出した。精米機、乾燥機、壁の隙間、積み上げられた米袋の山。隅々まで目を凝らすが、どこにも時計の姿なんてない。デジタル表示のタイマーはあっても、あの音を出すようなアナログ時計は見当たらないのだ。
「どこにも、ねえ…」
膝がガクガクと震え、立っているのがやっとだ。まるで、あの夜の俺。たった一人、真っ暗な部屋で、壁から響くカチカチという音に怯えていた、あの夜の子供の俺だ。あの時も、音の正体はわからず、ただ恐怖に支配されるしかなかった。まさか、こんな場所で、同じ思いをすることになるなんて。俺は結局、あの日の自分から何も成長していないのか?この、拭い去れない不安と震えは、いつになったら消えてくれるんだ。
もうダメだ、と諦めかけたその時、ふと、俺の視線が精米機の裏手の、薄暗い一角に引き寄せられた。埃と油で汚れた機械の隙間。そこには、使い古された米袋が雑に積み上げられていて、その影が濃い闇を作っていた。覗き込まなければ、絶対に気づかないような死角。
その奥に、それはあった。
古びた日本人形だった。薄汚れた着物をまとい、ギョロッとした目が、暗闇の中で生々しくこちらを見つめているように感じた。人形は、精米機のわずかな振動で、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その積み上げられた米袋の隙間で動いていた。そして、その動きに合わせて、人形の袖や髪飾りが、近くの壁や米袋の端に「カチ、カチ」と不規則に触れていたのだ。
その瞬間、全身の力が抜けて、俺はへたり込んだ。
なんだ、これ。時計じゃない。ただの人形が、精米機の振動で動いていただけ。あの不気味な音の正体が、こんなにも拍子抜けするようなものだったなんて。
精米所の埃っぽい空気は、まだ俺の肺を重くする。そして、過去のトラウマが完全に消え去ったわけじゃない。膝の震えも、胃のむかつきも、まだ残ってる。でも、あのカチカチ音は、もう俺を縛りつける時計の音じゃない。ただの、人形が動く音だ。そう理解した途端、ほんの少しだけ、肩の荷が下りた気がした。
俺は、まだ不安で震えているけど、それでも、この精米所を後にする。この一歩が、過去の影を振り払うための、ほんの小さな一歩だと信じて。