
この胸の奥底から込み上げてくる鉛みたいな塊は、一体いつになったら消えてくれるんだろう。息を吸うのも苦しくて、肺の奥がひりひりする。喉もカラカラに乾いて、唾を飲み込むのさえ億劫だ。心臓は、まるで運動会のスタートを待つ短距離走者のように、ずっとドコドコとやかましく鳴り続けている。ここ数週間、何の兆候もなく突然発症した「孤独恐怖症」ってやつが、俺の日常をめちゃくちゃにしている。
今いるのは、大学の夜間自習室。閉館後の図書館の一部を、学生証を持つ者だけが使える空間だ。普段なら静かで集中できる場所のはずが、今はその静寂がとてつもなく重苦しい。蛍光灯の白い光が埃の舞う空気の中にぼんやりと広がり、それが余計に俺を一人ぼっちにしているように感じさせる。周りには誰もいない。机の上には開かれた参考書が何冊かあるけれど、文字の一つ一つが視界の中でぐにゃぐにゃと歪んで、全く頭に入ってこない。ただでさえ不安で全身が冷たい汗でべっとりなのに、この「誰もいない」という事実が、さらに俺の背中に冷たい水でもぶっかけられたかのように全身を強張らせる。胃のあたりがムカムカして、吐きそうだ。
その時だった。「ヒヒッ……」
背後から、甲高い、乾いた笑い声が聞こえた。
心臓が、本当に飛び出たかと思った。ドゴン!って、肋骨を内側から叩きつけるような衝撃。全身の毛穴という毛穴が開き、一気に汗が噴き出す。なんだ、今の。幻聴か?疲れてるのか?いや、違う。確かに聞こえた。耳の奥に、まだその残響がこびりついている。
俺はゆっくりと、まるで錆びついたロボットみたいにギギギと音を立てながら後ろを振り返った。誰もいない。書架の向こうは暗闇に沈んでいて、ただ本の背表紙がずらりと並んでいるだけだ。机と椅子の間を縫うように、左右を見渡す。どこにも、人の気配なんてない。
「ヒヒッ……ヒヒッ……ハッハッハッ……」
今度は、少し間隔を置いて、さっきよりもはっきりと、そして長く聞こえた。甲高く、どこか子供っぽいような、それでいて妙に生々しい笑い声が、広い空間に反響して響き渡る。まるで、壁や天井のあらゆる方向から同時に聞こえてくるような錯覚に陥る。脳味噌が焼けるように熱い。これは、現実なのか?俺はとうとう頭がおかしくなったのか?
「突然の孤独恐怖症発症」が、最高潮に達した。全身が震え出し、歯の根が合わない。ガチガチと音を立てる。息がうまく吸えない。ヒューヒューと喉が鳴って、意識が遠のきそうになる。この空間に、俺一人しかいないはずなのに、誰かがそこにいる。俺を見ている。俺を嘲笑っている。そして、誰も助けに来てくれない。このまま、ここで、誰かに……何かに、捕まってしまうんじゃないか。そう思うと、もう全身の毛穴という毛穴から冷たい脂汗が吹き出し、シャツが肌に貼り付いて気持ち悪い。
「ヒッ……ヒヒッ……」
笑い声は、また唐突に途切れた。そして、俺が息を詰めて耳を澄ませていると、再び、今度は少し離れた場所から聞こえてくるような気がした。不規則だ。まるで俺の反応を楽しんでいるかのように、聞こえたり消えたりを繰り返す。そのたびに、全身がビクッと跳ね上がる。もう、心臓が痛い。胃液が逆流してきて、口の中が酸っぱくなる。
早くここから逃げたい。でも、体が動かない。足が、鉛のように重くて、椅子から立ち上がることすらできない。この図書館のどこかに、奴はいる。俺を見ている。そう思うと、背筋がゾワゾワと凍り付く。誰か、誰か来てくれ。誰でもいい、俺以外の人間の気配を感じたい。この孤独が、俺を殺す。
その時、ヒクヒクと震える指先が、机の横に置いたバッグに触れた。中の物が、少し形を変えたような気がした。いや、違う。いつも勉強中に気分転換で音楽を聴くために持ち歩いている、小型のAIスピーカーの感触だ。そういえば、さっきまで、小音量でジャズを流していたような……。
まさか。
震える手で、バッグのファスナーを開ける。中から、手のひらサイズのAIスピーカーを取り出した。電源ランプが青く光っている。液晶画面は真っ暗だが、なぜかスピーカーから、まだ微かに「ヒヒッ……」という笑い声が漏れている。
俺は、恐る恐るAIスピーカーの側面にある電源ボタンを押し、画面を点灯させた。一瞬、画面がチカッと光って、表示された文字を見て、俺は全身の力が抜けた。
『「突然の笑い声」を再生中』
……は?
俺は完全に放心状態になった。肩から力が抜け、持っていたAIスピーカーが手から滑り落ちそうになる。なんだ、これ。頭が真っ白だ。汗でびしょ濡れの体から、冷たい風が吹き抜ける。なんだ、これ。
笑い声は、AIスピーカーの画面が点灯したのと同時に止まっていた。
俺は、もう一度画面を見た。間違いなく、「突然の笑い声」という曲名が表示されている。
おそらく、バッグの中で参考書か何かに当たって、ボタンが誤作動したのだろう。あるいは、接続していたスマホの音楽アプリが勝手にバックグラウンド更新でもされて、過去に再生したことがある(そしてなぜかプレイリストに入っていた)このふざけた曲が再生されてしまったとか。
俺は、全身の力が抜けて、そのまま椅子に座り込んだ。ドサッ、と音がする。
馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい。
今まで感じていた、とてつもない恐怖。全身を襲った吐き気と冷や汗。息もできないほどの孤独感。それが、たった一つの、AIスピーカーの誤作動だったなんて。
こんなんで、こんなんで、俺は死ぬかと思ったのか?
安堵と、怒りと、そして情けなさがないまぜになった感情が、胸の奥でぐちゃぐちゃになる。
「こんなんで怖がらんじゃねーよ、マジで……」
誰に言うともなく、乾いた声で呟いた。そして、フッと、乾いた笑いが漏れた。生理的な、どうしようもない笑いだ。この状況が、あまりにも馬鹿馬鹿しくて、情けなくて、おかしくて。
俺は、ぐったりと肩を落としたまま、AIスピーカーをバッグに突っ込んだ。もう、こんな場所にはいられない。参考書も、もうどうでもいい。こんな「突然の孤独恐怖症発症」のせいで、俺はとんでもない時間の無駄をした。
フラフラと立ち上がり、自習室の出口へ向かう。図書館の静寂が、今度はただの静寂として、耳に届く。
全身の筋肉が緩み、まるで数時間走り続けた後のように、足が重い。
早くこの閉鎖された空間から出たい。人のいる場所へ。誰かの声が聞こえる場所へ。
こんな夜は、もう二度と御免だ。