
笑い声の秘密
こんなところに住むこと自体が間違いだったのだ。
壁の向こうでミシミシと木の軋む音がするたびに、私の胃はキリキリと締め付けられる。古い建物特有のカビと埃が混じった匂いが鼻腔を刺激し、喉の奥が常にイガイガする。ここ数日、夜中に聞こえるようになった奇妙な音が、私の神経をさらにすり減らしていた。ただでさえ、私はもう何年もまともに眠れていない。過去のあの出来事が、常に私を縛り付けて離さない。心臓はいつも早鐘を打っていて、首から肩にかけては石のように固まっている。呼吸は浅く、まぶたの裏では絶えず何かが痙攣しているような気がする。この緊張状態から、いつになったら解放されるのだろう。いや、もう一生無理なのかもしれない。
深夜、私は懐中電灯を片手に、足元に気をつけながら廊下を歩いていた。修繕中の事故物件と聞いてはいたが、まさかこんなに荒れ放題だとは思わなかった。昼間は業者の出入りがあるからまだいい。だが、夜になると、ここはまるで世界の終わりのような静寂と、得体の知れない気配に包まれる。時折、風が吹き抜けて窓枠がガタガタと鳴ったり、遠くで犬が吠えたりする音が、私の耳にはまるで誰かの呻き声のように聞こえてしまう。ああ、もうこんな生活は嫌だ。一体、私は何のために生きているんだか。
その時だった。
ひゅー、ひゅー、ひゅー、という、細く甲高い音が、遠くの部屋から聞こえてきた。それに混じって、ごく一瞬だけ、「ピロリ」という、錆びたバネが跳ねるような、奇妙な金属音が耳につく。高周波の、耳の奥をくすぐるような不快な音。それは、私が何年も前に聞いた、あの忌まわしい笑い声と、あまりにも似ていた。
私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。まただ。また、あの音が。まさか、幻聴か? いつものように疲労と緊張が引き起こす、脳の誤作動か? いや、違う。これは、確かに外から聞こえる音だ。
笑い声は、次第に耳にまとわりつくように大きくなっていった。高周波の「ひゅーひゅー」という音と、「ピロリ」という金属音が重なり、まるで甲高い女の笑い声のように聞こえる。いや、違う。これは子供の、悪意に満ちた嘲笑だ。私の全身の筋肉が硬直し、足の裏が床に張り付いたように動かない。心臓は潰れるんじゃないかと思うほど激しく鼓動し、呼吸はヒューヒューと喉を鳴らした。冷や汗が吹き出し、それが目に入って視界が滲む。脂汗と埃とカビの匂いが混じり合い、吐き気がする。駄目だ。逃げなければ。この場所から一刻も早く。そう思うのに、身体は鉛のように重く、一歩も前に踏み出せない。笑い声は、私を嘲笑うかのように、すぐそこまで迫ってきているように感じられた。もう、限界だ。もう、無理だ……。
どれくらいの時間が経っただろう。呼吸が少しだけ落ち着いた隙に、私は一瞬の冷静さを取り戻した。このままここで怯え続けるだけでは、何も解決しない。音の出所を突き止めるしかない。
震える手で懐中電灯を握り直し、私は音のする方向へ、一歩ずつ足を進めた。床板がギシギシと鳴り、その音までが私を責めているように聞こえる。廊下を進むと、突き当たりの部屋のドアの隙間から、ぼんやりと光が漏れているのが見えた。修繕作業用の仮設照明の光だろうか。その光の向こうから、あの、耳障りな笑い声が聞こえてくる。
薄暗い部屋に足を踏み入れると、埃っぽい空気がさらに重くのしかかった。壁際には、修繕作業で使われたらしい資材が山積みになり、脚立が立てかけられている。それらの間に、何かの影がうずくまっているように見えた。私は恐る恐る懐中電灯の光を向けた。
資材の隙間、使い古された毛布の裏に、それはあった。古びた木製の箱。オルゴールだ。
よく見ると、オルゴールは大きく損傷していた。蓋は開いたまま、中のゼンマイは絡まり、歯車は歪んでいる。金属製のピンはいくつも折れ曲がり、円盤に当たって空回りしているものもあった。
修繕作業の振動が、故障したゼンマイを不規則に揺り動かし、歪んだ歯車が擦れ合う高周波の音を立てていたのだ。そして、折れたピンが不意に円盤に触れるたびに、「ピロリ」という、電子音のような不協和音を奏でる。それらの音が、私のトラウマと結びつき、「笑い声」として耳に届いていたのだ。
私はその場にへたり込んだ。全身の力が抜け、膝がガクガクと震える。顔は冷や汗でぐっしょり濡れ、髪が額に張り付いていた。胃の不快感も、肩の凝りも、頭痛も、まだそこにある。けれど、あの得体の知れない恐怖からは、ようやく解放された。
オルゴールは、薄暗い部屋の片隅で、相変わらず「ひゅーひゅー」と、不気味な音を立て続けている。だが、もう私には、それが「笑い声」には聞こえなかった。ただの、故障した機械の、耳障りな音。
私は、ぼんやりとオルゴールを眺めながら、乾いた笑みを浮かべた。安堵の笑みなのか、それとも、こんなにも馬鹿げたことで恐怖していた自分への自嘲か。はたまた、未だに消えない胃の痛みや、肩の重さへの諦念か。
結局、原因はこんなものだった。だが、私の心臓はまだ、不規則なリズムを刻んでいる。過去のトラウマは、何一つ解決していない。ただただ、疲れ果てただけだ。