
まただ。またこの音がする。
深夜の地下道に、耳障りなチャイムの音が響く。ピンポーン、ピンポーン。どこか遠くから、だが確実に、その音は私の鼓膜を震わせる。ここ数日、毎晩これだ。仕事帰りにこの地下道を通るようになって一週間。最初は気のせいかと思った。工事で昼夜なく人が出入りしてるから、誰かが何かを鳴らしてるんだろうって。でも、違う。この時間、深夜の二時過ぎに、ここには私しかいない。いつも誰もいない。
なのに、チャイムが鳴り続ける。ピンポーン、ピンポーン。
疲れた体を引きずって、ひんやりと湿った空気を吸い込む。地下道特有の埃っぽい匂いが鼻の奥にまとわりつく。足の裏はもう限界だ。ヒールを履いて一日中歩き回り、やっと解放されたと思ったら、今度はこの薄暗い、湿っぽい地下道を歩かされる。しかも、誰もいないはずなのに、チャイムの音が続く。本当に勘弁してほしい。
少し前方に目を凝らす。薄暗い非常灯の光が、壁の染みや配管の影を不気味に浮かび上がらせている。その中に、なんだろう、ぼんやりと四角い影と、その上に小さな光る点が重なって見えた。まるで、チャイムの押しボタンみたいに……。いや、気のせいだ。きっと、水滴が光を反射しているだけだ。でも、あそこから音が聞こえる気がする。
ピンポーン、ピンポーン。
一段と音が大きく、近くになった気がして、思わず足を止める。心臓がドクドクと不規則なリズムを刻み始めた。息が詰まる。背筋がゾワリと粟立つのを感じた。ああ、もうやめてくれ。頼むから。毎日毎日、このチャイムの音。ただでさえ疲れてるのに、こんな心霊現象みたいなものまでご勘弁。胃がキリキリする。
風が、どこからか吹き込んできた。地下道って、こんなに風が通るものだっけ? 生ぬるい風が私の髪を撫で、同時に、金属が小さく擦れるような、カラン、カランという音が聞こえた。それはチャイムの音に混じって、さらに不快感を増幅させる。
ピンポーン、ピンポーン。カラン、カラン。
もうだめだ。早くここを抜け出したい。足が鉛のように重い。こんな時間まで残業させられて、この地下道を通って帰るしかないなんて、本当にツイてない。こんな時まで、変な音に怯えなきゃいけないなんて。地下道には、本当に私しかいない。誰かが隠れてるわけじゃない。見ればわかる。資材が積み上げられているだけの、ただの工事中の地下道だ。でも、チャイムの音は続く。
前方の曲がり角の向こうから、音がさらに強く響いてくる。どうしよう。もう、行きたくない。でも、行かなきゃ帰れない。
ピンポーン、ピンポーン。
私の息遣いだけが、地下道に響く。いや、違う。チャイムの音が、私の呼吸をかき消す。
意を決して、一歩、また一歩と足を進める。曲がり角を曲がった。
そこには、何もなかった。
ただ、積み上げられた工事用のパイプと、それを覆うようにかけられた青いシートの影。
誰もいない。チャイムの本体なんて、どこにも見当たらない。
だが、チャイムの音は、まだ続いている。ピンポーン、ピンポーン。
しかし、よく見ると、シートの陰に、何かが落ちている。工事用の資材の隙間に、覗き込まないと見えないような場所に、無造作に転がっているものがあった。
それは、どっしりとした、警備員が着るような厚手の防寒着だった。
そして、その防寒着の、胸元。ファスナーが、わずかに開いて、ぶら下がっている。
その金属製のファスナーの持ち手が、地下道を吹き抜ける風に揺られ、近くにあった金属製のパイプの壁に、カツン、カツン、と、軽く当たっていた。
その、カツン、カツンという音が。
遠くから、遮蔽物の向こうから聞こえていた時、私の耳には、まさしく「ピンポーン」という、どこか間延びしたチャイムの音として聞こえていたのだ。
私は、その場で立ち尽くした。
そして、プッと、吹き出した。
あはは、と声に出して笑う。乾いた笑いが、地下道の壁に反響して、少し不気味に響いた。
なんだ、それ。なんだよ、それ。
一週間、毎晩毎晩、私を恐怖のどん底に突き落としていたチャイムの正体が、これ?
誰かの忘れ物の、警備員の防寒着のファスナー。
24時間工事してるから、警備員も昼夜いるんだろう。それで、休憩中にでも脱いだのが、そのまま放置されたってことか。
ああ、馬鹿みたい。
私は、ただの金属音が、薄暗い地下道で、私の疲れた脳が勝手に作り出した幻覚に、一週間も怯えていたのか。
足の裏の痛みも、眠気も、胃の不快感も、全部、このくだらない音のせいで余計にひどくなってたのに。
もう、二度とこの地下道は通りたくない。
そう思いながら、私は防寒着のファスナーが、風に吹かれてカツン、カツンと鳴り続ける音を背に、出口へと歩き出した。
深夜の地下道で、誰もいないのにチャイムの音が続く。
なんてことない。ただのファスナーの音だった。
でも、もうしばらく、耳から離れてくれそうになかった。