湿気か、幻か。線香の煙が這い寄る

幽霧のカプセルホテル

体が鉛のように重い。こんな狭苦しいカプセルの中で、隣の壁一枚隔てた向こうに誰かが眠っていると思うと、呼吸すら憚られる。日付が変わってずいぶん経つ。深夜――いや、もうすぐ朝だろうか。時計を見る気力もない。ただ、この身を蝕む不安だけが、ずっしりと胃の腑に居座っている。

昨日、あの寺でのことが、またフラッシュバックする。石段で滑って膝を擦りむいた痛みよりも、あの時、立ち込めていた線香の匂いが、今も鼻の奥にこびりついて離れない。あの、むせるような甘ったるい煙と、不意に視界に入った古びた卒塔婆の影。あれが、私をここまで追い詰める根源だ。この数週間、ろくに眠れていない。不眠が続くと、身体のあちこちが痛み出す。特に、右の肩甲骨のあたりが常に凝り固まっていて、吐き気がするほどだ。今も、心臓がみっともなくドクドクと、全身に不安を叩きつけている。

目を閉じても、瞼の裏にはあの寺の光景が焼き付いている。目を覚ませば、このカプセルホテルの薄暗い天井。どちらも私を安心させてはくれない。喉がカラカラに乾いている。水を飲もうと起き上がろうとするが、手足が震えて力が入らない。この不安感は、もう私の日常の一部だ。いや、日常を乗っ取ってしまった怪物だ。

どれくらいそうしていただろうか。意識の淵をさまよっていた耳に、かすかな音が届いた。最初は、雨の音かと思った。ザァー、ザァーと、遠くで何かが落ちるような、膜一枚隔てたような音。いや、違う。もっと近く、水が床に落ちるような、ポタ、ポタ……と、不規則なリズム。

同時に、鼻腔の奥に、あの匂いがまとわりつく。線香。まさか。こんなカプセルホテルで? でも、確かにあの、甘ったるくて、少し焦げ付いたような、むせる匂いがする。嫌だ。体が硬直する。心臓がさらに激しく、狂ったように鼓動を打つ。ドクン、ドクン、ドクン。まるで私の不安を嘲笑うかのように。

カプセルから這い出る。軋む体で身を起こし、狭い通路へ足を踏み出す。ひんやりとした空気が肌を撫でた。そして、目の前を、薄い膜のようなものが漂っている。白い。うっすらと、まるで煙のように。間違いない、線香の煙だ。あの時、寺で見た、あの忌まわしい煙と同じ。

「う、嘘でしょう……」

思わず声が漏れた。喉が張り付いたように痛む。全身の毛穴という毛穴が恐怖で開ききっているような感覚だ。足元が濡れている。冷たい水が、足の裏にじっとりとした感触を残す。どうして? こんなホテルの廊下で、こんなことが……。あの、まとわりつくような煙と、この線香の匂い。体が熱いのに、鳥肌が立つ。手足の震えが止まらない。胃の奥から何かがこみ上げてくるような吐き気。もう限界だ。

通路の奥、共用スペースへとつながる廊下の方から、かすかに風が吹き込んでいるような気がした。そこからだろうか。廊下の壁に、換気口か何かだろうか、スリットが見える。そこから流れ込む空気のせいで、あの白い煙のようなものが揺らめいている。風に乗って、線香の匂いがさらに強く、鮮明に鼻腔を刺激する。

「やめて、やめて……」

もう、まともな思考ができない。頭の中で、あの寺の情景と、目の前の白い煙、そして線香の匂いがごちゃ混ぜになり、私の理性を食い破っていく。恐怖で目が霞む。このままでは気が狂う。

その時だった。

「あら、奥さん、足元が濡れてますよ。気をつけてくださいね」

不意に、背後から優しい声が聞こえた。振り返ると、同じカプセルから出てきたらしい、私より少し若い女性が立っていた。彼女の目線が、私の足元に向いている。

「え……?」

言われて初めて、自分の足元に視線を落とす。冷たい水が、たしかに私のスリッパを濡らしていた。そして、その水たまりの向こうに、モップを片付けようとしている清掃員の姿が見えた。彼女は、まだ夜が明けきらない時間から、廊下の清掃をしていたらしい。バケツから水が少し溢れたのか、あるいは外からの雨水が入口から吹き込んでいたのか、床の一部が濡れていたのだ。そして、あの白い煙のように見えたものは、濡れた床から立ち上る、ただの湿気だった。カプセルホテルの空調と、清掃剤の匂いが混じり合った、ただの湿気。

線香の匂い……。それは、私の脳が、あの湿気と、過去のトラウマを勝手に結びつけて作り出した幻だった。ああ、なんてことだ。この数週間、私を苦しめてきた不眠と、あの寺での恐怖が、こんなところで、こんなくだらない形で結末を迎えるなんて。

脱力した。全身から力が抜け、その場にへたり込みそうになる。頭を抱え、情けない笑いがこみ上げてきた。ハハ、ハハハ……。乾いた笑いが、静まり返ったカプセルホテルの廊下に、嫌に響いた。隣の女性が、心配そうにこちらを見ているのが分かったけれど、もうどうでもよかった。ただ、この馬鹿げた勘違いに、心底、安堵していた。こんなにも、こんなにも不安に苛まれていたのに、結局は、ただの濡れた床と、私の病んだ心が織りなした幻だったのだ。ああ、疲れた。本当に疲れた。この肩甲骨の痛みも、吐き気も、きっとこの不安のせいだ。明日は、もう少し、眠れるだろうか。