幽霊の落書き

ああ、まただ。またこの感覚だ。
生温い空気が喉の奥にへばりついて、息をするたびにカビと埃が混じったような匂いが鼻腔を刺激する。昨日から泊まり込んでいるこの部屋は、いわゆる「事故物件」ってやつで。なんで私がこんなところにいるのかって? それは、まあ、色々あって。でも、とにかく、ここに来てからずっと、神経が毛羽立ったままだ。

昨夜はほとんど眠れなかった。布団はなんだか湿っぽいし、シーツはゴワゴワして肌にまとわりつく。目を閉じれば、あの時の光景がフラッシュバックする。あの、薄暗い部屋で、あの声が、私を責め立てて……。胃の奥がぎゅうっと掴まれるような不快感に、何度も吐き気がこみ上げた。吐くものなんて何もないのに、胃液が逆流してきて喉がヒリヒリする。

真夜中を少し過ぎた頃だったと思う。正確な時間は分からない。スマホの画面を見る気力もなかった。突然、壁の向こうから、何かを引っ掻くような、ザリザリという音が聞こえてきたんだ。最初は何かの物音かと思った。古いアパートだし、隣の住人が何かしてるんだろうって、無理やり自分に言い聞かせた。でも、その音は不規則で、まるで爪で壁を削っているみたいに響く。

心臓がドクン、と大きく跳ねた。あの時もそうだった。誰も信じてくれなかった。私が何かを訴えても、みんな「気のせいだ」「考えすぎだ」って。でも、あれは確かにあったんだ。あの、冷たい視線も、耳元で囁かれたあの言葉も。指先が冷たくなって、手のひらだけがねっとり汗ばむ。

ザリ、ザリ、キュッ。
音が止まったかと思えば、またすぐに始まる。今度は少し、電子的な「ジー」という微かな音も混じっている気がした。そして、その音と同時に、壁の一部がピカッと光った。蛍光灯の光がちらついたような、そんな曖昧な光。それが、壁に影を落とし、まるで何かの文字が浮かび上がったように見えたんだ。

「殺す」
そう見えた。絶対に、そう見えた。
頭のてっぺんから冷たいものがスーッと降りてきて、全身の毛穴がぶわっと開く感覚。呼吸が浅くなって、喉が張り付く。まただ。また私だけがおかしなものを見ている。おかしいのは私なんだ。私は、正常じゃない。あの時のことも、全部、私が作り出した幻だったのかもしれない。そう思うと、胃の底が冷えて、吐き気がさらに強くなった。

部屋の中を探し回った。震える手でスマホのライトを点けて、部屋の隅々まで照らす。壁に、何か書いてあるんじゃないか。誰かが、私を脅すために、何かを仕組んだんじゃないか。でも、どこにも、何もない。壁には薄汚れたクロスが貼ってあるだけで、カビの染みがあるくらいだ。落書きなんて、一つもない。

なのに、また音がする。ザリザリ、キュッキュッ。そして、ピカッ、ピカッと、不規則に光が点滅する。そのたびに、影が揺れて、今度は「邪魔だ」って文字が浮かび上がったような気がした。もう駄目だ。私は狂ってる。あの時も、そう言われた。お前はもう駄目だ、って。頭がガンガン痛んで、こめかみが脈打つ。胃液がまた込み上げてきて、思わず口元を押さえた。

一晩中、その音と光に怯え続けた。布団にくるまって、耳を塞いで、目を強く閉じた。でも、瞼の裏にも、あの光と文字が焼き付いて離れない。体中が鉛のように重い。眠気があるはずなのに、少しでも意識が遠のくと、あの光景が脳裏を駆け巡って、心臓がバクバクとうるさく鳴り出す。

ようやく、空が白み始めた頃だった。カーテンの隙間から差し込む、埃っぽい朝日に目が覚めた。いや、正確には、少しだけ意識が浮上しただけ。まだ体はだるくて、頭も重い。でも、あの音は、止まっていた。
ゆっくりと、軋む体で体を起こす。部屋の隅、ベッドと壁の隙間に、何かが転がっているのが見えた。

それは、小さな懐中電灯だった。
それが、微かに点滅している。バッテリーが切れかかっているのか、規則性のない「ピカッ、ピカッ」という光を放ち、そのたびに内部から「ジー」という微かな電子音や、「カチッ」というスイッチの音が聞こえてくる。それが、壁に反射して、不規則な影を作り出していたんだ。

その時、ガチャリ、と部屋のドアが開く音がした。
「ああ、ここにあったか! 悪いねえ、忘れ物しちゃって」
作業着を着た、見慣れないおじさんが立っていた。手には工具箱。「昨日の夜中にちょっと作業してたもんで、つい。これ、バッテリーが切れかかってて、点滅してたでしょ? 困ったもんだ」

おじさんは屈んで、懐中電灯を拾い上げた。私が一晩中怯えていた「怪異」の正体は、ただの、忘れ物の懐中電灯だった。
心臓の鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。全身から力が抜けて、ぺたりと床に座り込んだ。
ああ、そうか。ただの懐中電灯。
壁の文字も、あの音も、全部、私が勝手に作り出したものだったんだ。

深い、深い、ため息が漏れた。
安堵なのか、それとも、また自分がこんなにも不安定なことに絶望しているのか。
どちらにしても、もう、疲れた。
誰にも理解されない、この脳みそが。
顔を覆って、乾いた笑いが漏れた。声にならない、枯れた笑い。
まただ。また、こうやって、馬鹿みたいに怯えて。
朝日は、私の歪んだ顔を、容赦なく照らし続けていた。