
こんな夜中に、まさか屋上まで上がってくるなんて。我ながらどうかしてる。でも、あの部屋にいたら気が狂いそうだった。友人が消えてから、もう何週間? 毎日、毎晩、頭の中を同じ言葉がぐるぐる回る。「あの子はどこへ行った?」「なぜ、いなくなった?」「私が何か、見落としていたんじゃないのか?」 胃のあたりが常にねじれるような不快感で、吐き気までする。もう眠れない。食べられない。このままじゃ、私が先に消えてしまいそうだ。
コンクリートの床はひんやりと冷たく、かろうじて月明かりが薄らと周囲を照らしている。街の明かりが遠くで滲んで、それだけが唯一の現実感だった。ここなら、誰にも邪魔されずに、ただこの重苦しい空気を吸って、頭の中を整理できると思ったのに。
ヒュー、ヒュー……。
風がフェンスの隙間を抜ける音が、やけに耳につく。その隙間風に、どこか遠くから、不規則な金属音が混じった気がした。カツン、カツン、と。いや、違う。もっと規則的だ。まるで、誰かが何かを叩いているような……。
心臓がドクンと跳ねた。何かの呼び出し音に似ている。
「まさか……」
嫌な汗が背中を伝う。ここにはインターホンなんてないはずだ。この建物は古くて、屋上には非常階段と、あとは使われてない物置くらいしかない。どこから聞こえているんだ? 空耳? いや、幻聴か。この数週間、ろくに寝てないせいで、もう耳までおかしくなったのか。
頭の奥がズキズキと痛み出す。この痛みも、あの子が消えてからずっとだ。鎮痛剤もほとんど効かなくなってきた。もう、体中が悲鳴を上げてる。なのに、この状況でまで、私の脳みそは休むことを許してくれない。あの子のことを考えろ、もっと深く考えろって、呪文のように囁き続けてくる。
ヒュー、カツン、カツン……ピンポーン、ピンポーン。
はっきりと聞こえた。今度は間違いなくインターホンの音だ。しかも、さっきよりずっと近い。心臓が喉まで飛び出してきそうだ。まさか、屋上まで誰かが……? いや、ありえない。こんな時間に、誰が何の用で。
恐怖で足がすくむ。視線を這わせると、屋上の隅、普段はほとんど目に入らないようなフェンスの陰に、ぼんやりと光るものが見えた。薄暗闇の中、その光はまるでインターホンの呼び出しボタンのように、四角く、そして不気味に点滅しているように見えた。いや、点滅はしていない。ただ、風が吹き荒れるたびに、周りの影が揺れてそう見えるだけだ。きっとそうだ。
しかし、その光の奥から、再び音が響く。
「ピンポーン、ピンポーン……!」
もう、完全にインターホンの呼び出し音だ。恐怖で体が震える。誰だ? なんでこんな場所に? もしかして……。
嫌な予感が全身を駆け巡った。友人が、助けを求めているのか? 私が、彼女の異変に気づかなかったから、怒って、私を試しているのか?
「誰……? 誰なの……!?」
半ば叫びながら、私は光の方へおそるおそる近づいた。足がもつれて、転びそうになる。この数日、まともな食事も摂れていないから、体中が鉛のように重い。こんな状態で、もし何かが襲いかかってきたら、私はもう抵抗することすらできないだろう。それでも、友人の名前が脳裏をよぎる。行かなくちゃ。もし、本当にあの子が、私を呼んでいるなら……。
足元のフェンスに手をかけ、恐る恐る体を乗り出すと、そこには古びた金属製の扉があった。完全に錆びついていて、とても開くようには見えない。その扉は、建物の壁とフェンスの間に、無理やり押し込まれるように設置されていて、普段は隣の物置の影になって、ほとんど視界に入らなかった。まさに、死角。
扉の隙間から、微かな光が漏れている。そして、その隙間を抜ける風が、扉の蝶番や、隣のフェンスの金属部分に不規則に当たり、擦れるような音を立てていた。
ヒュー、カシャン……。
それが、私の耳には「ピンポーン」と聞こえていたのだ。
扉の隙間から漏れる光は、建物の内部の通路の明かりだろう。その光が、ちょうど扉の取っ手部分の影と重なって、まるでインターホンのボタンが光っているように見えていた。パレイドリア。疲労と恐怖が作り出した、ただの幻。
「……はぁ」
全身の力が抜けた。膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐える。
なんだ、これ。こんな、馬鹿みたいな、勘違い。
開かない扉の、風切り音がインターホンに聞こえるなんて。
こんな場所に扉があるなんて、知らなかった。たぶん、この建物が元々店舗と住宅を兼ねてたから、その境界に設置されたんだろう。修理もされずに放置されたまま。そのせいで、こんな音を立てていたのか。
肩から、どっと力が抜ける。全身の筋肉が軋む。疲れた。本当に疲れた。友人の消えた真相を探すために、私はここまで追い詰められてきた。神経をすり減らし、ろくに睡眠も摂らず、食事も喉を通らない日々。その結果が、この、ただの風切り音と影による、滑稽なまでの誤認。
馬鹿みたいだ。こんなことで、いちいち心臓を握り潰されそうになって。自分自身に苦笑が漏れる。この疲労は、私をどこまで追い込むつもりなんだろう。このままじゃ、本当に私が壊れてしまう。あの子を見つける前に、私自身が消えてしまいそうだ。
私はもう一度、その錆びついた扉を見つめた。何の変哲もない、ただの古い扉。それが、私の不安と恐怖をこれほど掻き立てた。
もういい。今日はもう、何も考えられない。このままここにいても、ますます気が滅入るだけだ。
冷たい風が、私の頬を通り過ぎていく。頭痛は相変わらずだが、あのインターホンの音はもうしない。ただ、風がフェンスを揺らす音が、虚しく響いているだけだ。
私は重い足を引きずって、屋上から降りていった。