開かずの間、白い影の正体を見極められない。

最悪だ。本当に、最悪の夜だった。
こんな山奥の、しなびた温泉旅館でまで、工事の騒音に苛まれるなんて。
真夜中の二時を過ぎたというのに、ドリルか何か、あの地を這うような重低音が、ズンズンと腹の底に響いてくる。壁一枚隔てた向こうで、発電機が唸っているような、そんな嫌な音だ。こんな時間に何の用があるっていうんだ、全く。眠れない。ただでさえ、最近ずっと寝つきが悪くて、寝ても寝た気がしない日々が続いているのに。

何度寝返りを打っても、瞼の裏にあの「白い着物の女の正体を見極められない」という不快感がまとわりついて離れない。一体、あれは何だったんだろう。夢だったのか、幻だったのか。あの、ぼんやりと霞んだ白い影が、脳味噌の奥でうごめいている。考えるほどに、頭の奥がジンジンと痛む。もう、うんざりだ。

喉が乾いて仕方ない。重い体を起こして、よろよろと部屋を出た。廊下は薄暗く、ところどころ電球が切れかかっているのか、チカチカと不規則な光を放っている。その光のせいで、壁のシミや剥がれかけた壁紙が、まるで何かの文字や顔に見えてくる。パレイドリア現象ってやつだろうけど、こんな薄暗い場所だと余計に気持ち悪い。特に、あの白い着物の女以来、何を見てもそれが正体不明の何かではないかと疑ってしまう。

台所へ向かう途中に、この旅館の曰く付きの「開かずの間」がある。普段は固く閉ざされているはずのその部屋の扉が、なぜか半開きになっていた。工事の振動のせいだろうか。中からは、妙にひんやりとした空気が流れ出てくる。こんな深夜に、こんな部屋の扉が開いているなんて、さすがに気分が悪い。でも、その奥から、工事の騒音とは違う、ごく微かな、しかし妙に耳につく音が聞こえた気がした。まるで、絹ずれのような、あるいは、何かがゆっくりと擦れるような。

好奇心と、この不快な眠気から逃れたい一心で、私は吸い寄せられるようにその扉に近づいた。ギシ、と床板が鳴る。部屋の中は、廊下よりもさらに暗い。窓から漏れる外灯の光と、遠くで点滅する工事現場のライトが、部屋の奥に不規則な影を落としている。

その時だ。

壁と柱の間の、一番暗いところに、何か薄いものが、スッと動いた。いや、動いたように見えた。
ヒュッと、息を呑む。
あれは、隙間……? 壁にできた、裂け目?
いや、違う。壁自体が動くはずがない。
なのに、その薄暗い空間が、まるで息を吸うように、わずかに広がったように見えたのだ。工事現場から漏れる断続的な光が、その「隙間」の縁を、一瞬だけ白く縁取った。まるで、白い布が光を反射しているかのように。

心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。胃のあたりがキューッと締め付けられる。
まさか、また……あの「白い着物の女の正体を見極められない」不快感が、ここでも私を苛むのか。
あの曖昧な輪郭、はっきりしない形。それが、またもや目の前に現れたのか?
額にじっとりと汗が滲む。全身の毛穴がざわめくような感覚だ。

「隙間」は、動かない。
私が目を凝らすと、そこはただの壁と柱の境目だった。薄暗い影が、そう見せただけだ。パレイドリアだ。そう言い聞かせる。だが、その白い反射が、脳裏に焼き付いて離れない。

遠くから、また工事の重い振動音が響いてくる。まるで、この古い旅館全体が軋んでいるかのようだ。その音に合わせて、薄暗闇の中の「隙間」が、再び、今度はゆっくりと、横にスライドするように動いた。
はっきりと、何かがそこにある。
壁と柱の間に、何かが、薄く、白いものが、確かに「存在している」と錯覚した。
それが、一瞬だけ、工事現場から伸びるサーチライトのような強い光に照らされた。
その瞬間、私の視界に飛び込んできたのは、やはり「白い着物の女」のような、ぼんやりとした人影だった。

クソッ、まただ。またしても「白い着物の女の正体を見極められない」!
今度こそ、今度こそはっきり見てやる。
心拍数が一気に跳ね上がり、呼吸が荒くなる。喉がカラカラに乾き、唾を飲み込むのも苦しい。汗が額からこめかみを伝い、首筋を流れ落ちていく。気持ち悪い。
足元を見る。床板の隙間。埃が詰まっている。そこに意識を集中して、なんとか現実に戻ろうとする。こんな場所で、こんな薄汚れたパジャマ姿で、一体何をしているんだ、私は。情けない。

その「隙間」が、もう一度、今度は少しだけ大きく、はっきりとした動きで動いた。
そして、旅館の廊下の奥から、突然、カチャリと電気のスイッチが入る音がした。
一瞬、目が眩むほどの明るさが、開かずの間の奥まで届いた。
そこにいたのは、紛れもない、人間だった。

真っ白な作業着を纏った、三十代くらいの女性。
「え……?」
女性も私に気づき、驚いたように目を見開いている。
「あ、すみません……こんな夜中に、まさかこんな部屋に人がいるとは思いませんでした」
女性は、肩から下げた工具バッグを少し持ち上げながら、困ったように笑った。
「私、この旅館の工事を担当している業者なんですが、深夜にも関わらず騒音がひどいって苦情が何件か入ってまして。原因を特定するために、仮設の電源から漏れる電流とか、振動源とか、緊急で調査に来たんです。まさか、この開かずの間から外の工事現場が見えるなんて知らなくて……つい、ここから確認しようと」

女性の足元には、ごつごつした太い延長コードが、廊下の仮設電源から引き込まれているのが見えた。そして、彼女の白い作業着が、廊下の照明と、外から漏れる工事の光を反射して、まるで薄暗闇の中に浮かび上がる「隙間」のように見えていたのだ。
そして、私が漠然と「白い着物の女」と呼んで、その正体を見極められずにいた幻影も、きっと、こんな風に、薄暗闇と光の加減が作り出した、ただの「白い服を着た人」だったに違いない。

私は、力が抜けて、その場にへたり込んだ。
情けなくて、恥ずかしくて、そして、安堵して。
乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。ヒュー、ヒューと、情けない音がする。
ああ、本当に、最悪だ。
あの「白い着物の女の正体を見極められない」という呪縛は、こんなにも私を追い詰めていたのか。
でも、少なくとも、目の前の「白い作業着の女」の正体は、はっきり見極められた。それだけでも、今夜は、少しだけ眠れそうな気がした。
いや、やっぱり、まだ、あの「白い着物の女」の正体は、見極められていない。
この旅館の、埃っぽい空気のせいだろうか。まだ、頭の奥が、ズキズキと痛む。