
まったく、こんな時間に何やってるんだろう、私。もう夜中の2時だってのに、目が冴えちまって。寝ようにも、頭の中がぐるぐる回って、結局、近所の公園までフラフラと出てきてしまった。ここに来れば、少しは気が晴れるかと思ったんだけど、むしろ暗闇が私の思考をさらに重くする。街灯のオレンジ色の光が、黒い影を不気味に引き伸ばしてる。足元がおぼつかない。さっきから腰のあたりがじんじん痛むし、なんだか全身が鉛みたいに重い。あぁ、もうこんな体じゃ、何もかもが億劫になるばかりだ。
公園の奥へ、誰もいない道を一人、歩いていく。湿った土の匂いと、夜特有の冷たい空気が肌を刺す。ひんやりとした風が、私の頬を撫でて通り過ぎる。でも、その中に、妙な違和感が混じっていた。
ひゅう、と風が吹いた。その途端、顔にまとわりつくような生温かい空気が、不意に肌に触れたのだ。一瞬、息が詰まる。吐息、それも人間が吐き出すような、じっとりとした温かさ。夜の公園だぞ?こんな真冬の夜中に、こんな生暖かい風が吹くなんて、おかしい。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。まるで、誰かがすぐ後ろに立って、私の首筋に熱い息を吹きかけているような、そんな嫌な感覚。思わず振り返る。誰もいない。薄暗い木々の影が、怪しい形に蠢いているだけだ。
「まさか…」
あの時のことだ。子供の頃、この公園で感じた、あの得体の知れない生暖かい風。夏でもないのに、肌にまとわりつくような湿気と、妙な温かさ。それは幼い私を窒息させるような感覚で、恐怖と吐き気を同時に呼び起こした。誰に話しても、気のせいだ、風邪でも引いたんじゃないか、と笑い飛ばされた。でも、あの不快感だけは、私の身体に深く刻み込まれて、今でも時折、夢にまで出てくる。
また、風が吹いた。今度は、さっきよりもずっと強い。じわり、と肌が汗ばむような、まとわりつくような生温い空気が、全身を包み込む。髪の毛が、べったりと顔に張り付くような気持ち悪さ。肺の奥まで、その粘っこい空気が入り込んでくるような錯覚に陥る。
「くそっ…」
思わず、口から漏れた。胃の腑を掴まれるような嫌な感覚だ。背中を駆け上がっていく鳥肌が止まらない。これは、ただの風じゃない。あの時と同じだ。子供の頃の私が、誰にも信じてもらえなかったあの恐怖が、40過ぎて、こんな真夜中にまた私を襲うのか。身体が震える。頭の奥がズキズキと痛み出して、吐き気がこみ上げてくる。もう、いい加減にしてくれ。私だって、もう若くないんだ。こんなことでいちいち怯えて、心臓をバクバクさせたくない。更年期でただでさえ情緒不安定なのに、こんな現実にまで追い打ちをかけられるなんて、やってられない。
ぜいぜいと息をしながら、私はその不自然な温かさの源を探して、闇の中を凝視した。足元がおぼつかない。どこからだ?どこからこの生暖かい空気が来ているんだ?
目を凝らして、公園の隅々を這うように探す。木々の影、フェンスの向こう、植え込みの奥。そして、やっと見つけた。公園の管理事務所の裏手、大きな木の根元に、何かが置かれている。完全に影に隠れていて、普通なら絶対に気づかないような場所だ。コンクリートの基礎に隠れるようにして、小さな、しかし存在感のある影が見えた。
足が重い。一歩一歩、泥濘に足を取られるような感覚で近づいていく。暗闇に目が慣れてくると、それが薄汚れた白い箱のような形をしているのが分かった。近づくにつれて、微かな、電子的なモーターの唸りと、水のシュワシュワという音が聞こえてくる。
「これ…加湿器…?」
信じられない思いで、その箱に手を伸ばす。出力口からは、目に見えないほど微細な水滴が、まるで煙のように吹き出していた。それが、風に乗って、私の方へと流れてきていたのだ。
加湿器。こんな夜中に、公園の片隅で。
ふと、管理事務所の窓に、ぼんやりと明かりが灯っているのが見えた。中から、何やら話し声が微かに聞こえてくる。夜間作業でもしているのだろうか。そして、加湿器の横から、事務所の方へ向かって、一本の黄色い延長コードが伸びているのが見えた。仮設電源ボックスもそこにあった。
ああ、そうか。事務所の湿度調整でもしていたのか。それで、一時的に外に出されていた、と。
全身の力が、一気に抜けていく。恐怖が、馬鹿げた勘違いだったという現実に還元された安堵感と、しかし、こんなことでまた、子供の頃のあの嫌な感覚が蘇ってしまったことへの、どうしようもない疲労感とが、入り混じって私を襲う。
結局、私の恐怖は、こんなただの機械のせいだったのか。あの時の、幼い私が感じた、あの得体の知れない恐怖も、誰にも信じてもらえなかったあの苦しみも、もしかしたら、こんなしょうもない理由で片付けられるものだったのかもしれない。そう思うと、なんだか、どっと疲れてしまった。
髪は湿気でうねり、顔はベタつく。足はもう棒のようだ。もう何もかもが嫌になった。こんな夜中に、こんな馬鹿げたことで心臓をバクバクさせて、一体何になるんだ。
「…まったく、馬鹿みたい」
誰にともなく呟いて、私は重い足を引きずりながら、公園を後にした。もう、早く家に帰って、温かいシャワーを浴びて、何も考えずに眠りにつきたい。それだけが、今の私に残された唯一の願いだった。