
ったく、こんなとこまで来るんじゃなかった。森の奥、朽ちた廃屋の前に立つと、まず鼻腔を抜けるのはカビと土埃、それに何十年も染み付いた古びた木の匂いだ。肺の奥まで淀んだもんが入り込むみてぇで、なんだか息苦しい。
そして、この妙な感覚。肌にまとわりつくような、重苦しい空気。誰かがすぐそばで、ハァハァと息をしてるみてぇで気持ち悪いんだ。それが誰なのか、さっぱりわからねぇんだが、この感覚だけがやたらとリアルで、もう朝からずっとだ。これが「知らない過去の息づかい」ってやつなんだろうが、勘弁してほしい。本当に嫌なもんだ。どこへ行っても付いてくるみたいで、頭がおかしくなりそうだ。ああ、本当にタチが悪い。腰も痛ぇし、最近本当に疲れるんだが、この息づかいのせいで、余計に気が滅入る。
埃っぽい床板を踏みしめて中へ入ると、さらにその息づかいが濃くなるような気がする。暗がりの中で、古ぼけた家具の影がうごめいているように見えちまう。最近目が悪くなってきてるせいもあるのか、とにかく何もかもがぼやけて、不安を煽る。
その時だ。ポケットのスマホが突然震えやがった。心臓がドクンと跳ねて、思わず手が滑りそうになる。なんだ、一体。こんな場所で誰が…画面を見りゃ、知らない番号だ。こんな山奥で圏外になってるかと思いきや、繋がってる。意を決して出てみりゃ、何も聞こえねぇ。ただ、ザラザラとした、砂を噛むようなノイズの奥で、微かに、誰かの呼吸みたいな音が、耳の奥で鳴ってるような気がして…ああ、またこの息づかいだ。今度は電話の向こうからか?冗談じゃねぇ。
ガキの頃、ここでよく友達と遊んだっけな。鬼ごっことか、かくれんぼとか。あの時も、こんな風に息を殺して…いや、待てよ。何かのゲームで、息を潜めていたような…なんだか、そんな記憶の切れ端が、脳裏をよぎる。脂汗が滲み出る。額から首筋へ、じっとりとした感触が這い上がってくるのがわかる。胃のあたりが、ギューッと締め付けられるようだ。この息づかい、本当にタチが悪い。どこへ行っても付いてくるみたいで、頭がおかしくなりそうだ。
いつの間にか、外は真っ暗だ。廃屋の中は、さらに深い闇に包まれる。遠くで、何かが…いや、誰かが、息を潜めているような気がした。ギシギシ、と床鳴りか?いや、違う。もっと、生々しい、何かだ。呼吸音?いや、気のせいか?だが、この胸のざわつきは…この妙な息づかいが、今度はもっと近くで聞こえるような気がして、全身の毛が逆立つ。肌が粟立つってのは、こういうことか。本当に勘弁してくれ。
まただ!スマホが震える!ほとんど反射的に出る。だが、やはり向こうは無言。ただ、ザーッというノイズの奥で、微かに、誰かの呼吸音が、聞こえるような…いや、聞こえないような…心臓が、喉まで飛び出してきそうだ。口の中がカラカラに乾ききって、唾液すら出ねぇ。体中の力が抜けていく。ああ、もう本当に嫌だ。この息づかいのせいで、俺はもうまともに考えられねぇ。頭が痛ぇ、頭が。
その時、ふと、頭の中に映像が鮮明に蘇った。
あの時だ!あのゲームだ!鬼ごっこじゃねぇ、かくれんぼでもねぇ。もっと静かな、気配を探すゲームだ。友達と二人で、この廃屋の中で、息を潜めて、相手の気配を探す…そうだ、あの時も、こんな風に、誰かの息づかいを、耳を澄まして聞いてたんだ。この廃屋の、軋む音や、風の音に紛れて、友達の小さな呼吸音を探してた…
あの電話のノイズも、多分、あの時の、友達が隠れてる物音とか、俺が耳を澄ましてた、あの空間の音だったんだ。だから、誰も何も言わなかった…
なんだ、そうだったのか。この、ずっと俺にまとわりついていた『知らない過去の息づかい』ってのは…俺自身の、ガキの頃の、あの場所での記憶だったのか。
ふっ、と肩の力が抜ける。全身の緊張が解けて、地面にへたり込みそうになる。なんだか、バカバカしくなってきて、思わず笑いがこみ上げてきた。
ははは…なんだよ、本当に。昔の思い出と、てっきり幽霊か何かと勘違いして、こんなに脂汗を流して、心臓をバクバクさせてたなんて…情けねぇな、俺も。でも、なんだか、少し体が軽くなった気がする。あの気持ち悪い息づかいも、もう感じねぇ。スッキリしたもんだ。ったく、もう歳だ。こんなことでパニックになるなんてな。でも、これで良かった。さ、帰るか。懐かしいな…なんて呟きながら、俺は廃屋を後にした。もう、あの息苦しさはどこにもなかった。