深夜の異臭、耳元の「お疲れ様」

ったく、この臭いは何なんだ。鼻腔の奥までこびりつくような、この澱んだ空気は。深夜のネットカフェってのは、どこもこんなもんなのかね。汗と、インスタントのカップ麺の残り香と、それから、何だかよく分からん、消毒液なのかカビなのか、全てが混ざり合って肺の底に溜まっていくような重い臭いだ。もう何時間ここにいるのか、時計を見る気力も失せていた。頭の芯がじんじんする。昨日の夜からロクに寝てないせいか、それともこの空気を吸い続けているせいか。胃の腑から込み上げてくるような不快感が、もう限界だった。

パソコンの画面に映る数字の羅列も、もう頭に入ってこない。もうすぐ定年だというのに、こんなところで徹夜仕事とは、情けない話だ。ふと、耳の奥で微かな音がした。
「…お疲れ様です」
気のせいか? いや、確かに聞こえた。若い女性の声のような、それでいて機械的な響き。Siriか? 俺のiPhoneはマナーモードにしているはずだが、ポケットの中で勝手に反応でもしたのか? まさか。
いや、しかし、今の声は妙に生々しかった。
まさか、隣のブースから聞こえてきたのか? だが、隣は空いているはずだ。俺が入った時に確認した。チラリとパーティションの隙間から覗き込んだが、やはり誰もいない。ブースの奥の席も、カーテンが閉まっていて中の様子は分からない。だが、妙な気配もない。

「深夜のネットカフェの異臭に耐え難し」。本当にそれだけを考えていたかった。集中力を奪うこの臭いが、俺の五感を狂わせているとしか思えない。頭痛がしてきた。
まただ。
「…ッ、テイ…」
今度は、もっと不明瞭な、ブツブツと途切れるような音声。電気がショートするような「チリッ、チリッ」という小さな音に混じって、何かを呟いているように聞こえる。いや、呟いているというよりは、何かを読み上げようとして、途中で詰まっているような、そんな感じだ。
「…ネット…接続…」
はっきりと聞こえたわけじゃない。ただ、その断片的なノイズの合間に、まるで影とシミが重なって文字に見えるように、そう聞こえてしまっただけだ。まさか、誰かが俺のiPhoneを遠隔操作しているのか? そんな馬鹿な。だが、この不気味な声は、一体どこから来ているんだ。

背筋に嫌な汗が流れ落ちる。この、粘つくような臭いのせいで、余計に汗が冷たく感じた。
全身の毛穴という毛穴が、この腐った空気を吸い込んでいるような気分だ。
俺は立ち上がり、ブースのカーテンをそっと開けた。薄暗い通路には、俺と同じように疲弊した人間が何人か、それぞれのブースで身を潜めている。皆、ヘッドホンをしているか、ぐったりと眠っているか。誰かがスマホをいじっているような気配は全くない。
まさか、本当にSiriが勝手に起動しているのか? しかし、俺のiPhoneはポケットの中だ。触れてもいない。
また聞こえた。「チリチリッ」という、電気がショートするような音。そして、その後に続く、か細い、だが確かに「声」のような音。
「…お疲れ様です…」
今度は、はっきりと、さっきよりも明瞭に聞こえた。俺は思わず、持っていたマウスをぎゅっと握りしめた。どこのブースからだ? 音源を探そうと、耳を澄ませるが、このネットカフェ特有の、全ての音が吸い込まれるような静けさの中で、音の発生源が特定できない。
俺は通路をゆっくりと歩き始めた。まるで泥棒のように、背をかがめて。喉の奥がカラカラに乾いていた。この腐敗臭が、俺の口の中まで侵食しているかのようだ。気持ち悪い。

受付カウンターの方へ近づいていくと、また「チリチリッ」という音が聞こえた。今度は、少しだけ大きくなった気がする。やはりこの辺りか。カウンターには、若いバイトらしき男が一人、うつらうつらしている。深夜だし、こんなもんか。
俺はカウンターの周りを、まるで不審者のようにウロウロした。だが、それらしいものはない。
ふと、カウンターの奥、ドリンクバーの機械の裏手、清掃用具が雑然と積まれた段ボールの山に目が留まった。その段ボールの隙間から、何かのコードが伸びているのが見えた。そして、その奥まった影の中に、何やら黒い塊がある。
俺は好奇心に駆られ、いや、恐怖に背中を押されるように、段ボールの山に近づいた。狭い隙間に体をねじ込み、奥を覗き込む。埃っぽい臭いが、鼻腔をさらに刺激する。
「深夜のネットカフェの異臭に耐え難し」。もう、吐きそうだ。

暗がりに目を凝らすと、そこには古びたラジオがあった。埃を被り、液晶は割れ、見るからに故障している。そのラジオは、延長コードで壁のコンセントに繋がれていた。きっと、清掃用の仮設電源か、あるいは一時的に使うために設置されたものだろう。そのコードが壁から伸び、ラジオの電源に繋がっている。
俺が覗き込んだその瞬間、ラジオの内部から「パチッ」と小さなスパーク音がしたかと思うと、弱々しく電源が入った。そして、ガリガリッというファンの異音のようなノイズに混じって、先ほどの「声」が聞こえてきたのだ。
「…お疲れ様です…」
それは、ラジオの内部で接触不良を起こしているのか、電波を拾い損ねたのか、それとも単なる故障したスピーカーのノイズなのか、判別できない。だが、確かに「お疲れ様です」と聞こえた。そして、その後に続く「チリチリッ」という音と、断続的な「設定…インター…ネット…」という、何かを伝えようとして失敗しているような音声。

ああ、これか。これだったのか。
俺は一気に全身の力が抜けた。緊張と恐怖が霧散し、代わりにどっと疲労感が押し寄せてきた。
故障したラジオ。それが、電波ノイズや内部の異音と混ざり合って、まるでSiriが勝手に起動しているかのように聞こえていたのだ。深夜の静寂と、俺の疲労と、この耐え難い異臭が、そんな馬鹿げた勘違いを引き起こしたのか。
結局、このラジオは、カスタマーサービスに修理を依頼したものの、ネットカフェ側の手違いでそのまま放置されていたらしい。深夜のネットカフェでは、スタッフも頻繁に巡回できないから、こんな故障品が死角に隠れていても気づかれなかったのだろう。
全く。こんなくだらないことで、俺は一体何時間、恐怖に震えていたんだ。
疲労困憊で、俺は再び自分のブースに戻った。画面の数字の羅列は相変わらず頭に入ってこない。
ただ、この鼻腔を焼くような異臭だけが、現実としてそこにあり続けていた。
本当に、勘弁してほしい。