
最悪だ。本当に最悪。なんで俺はこんな時間に、こんな場所にいるんだよ。友人のアホ面が怪談話をニコニコしながら語る姿が目に焼き付いて離れない。墓地を歩けば不安が消えるなんて、どこの宗教家が言ったんだ。ただ、ただ不安が増幅してるだけじゃねえか。
視界が、ぐにゃぐにゃと歪む。恐怖で目が乾いて、まばたきするたびにゴロゴロする。これが「狐の目は怖さで視野狭窄」ってやつか。冗談じゃねえ。本当に視界の端が暗くなって、真ん中だけが異様にクローズアップされるような感覚。まるで目の中に狐の顔が貼り付いて、俺の視界を邪魔してるみたいだ。吐き気がする。胃のあたりが、ずっと冷たい塊を抱えているみたいだ。
漆黒の闇の中、ほんのり湿った土の匂いが鼻につく。空気は妙に冷たくて、肌にまとわりつくみたいだ。そんな中、不意に、右の方でチカッと赤い光が瞬いた。一瞬だ。本当に一瞬。俺は反射的にそっちを凝視した。視野狭窄のせいで、そこだけが異常にクリアに見える。いや、クリアに見える、というより、そこ以外が見えないだけだ。
赤い光は消えた。心臓がドクドクと、耳の奥でうるさい。頼むから鳴りやんでくれ。俺の恐怖を煽るんじゃねえ。
沈黙。沈黙が重い。その沈黙を切り裂くように、今度は「カタッ」と、どこかから微かな音が聞こえた。そして、またチカッと、同じ赤い光が瞬く。
「カタッ……チカッ……」
「カタッ……チカッ……」
規則的ではない。不規則に、しかし確実に、音と光が繰り返される。
俺は全身の毛穴が開くような感覚に襲われた。あの光の点滅と、その奥に見える暗い影、そして、その周りのぼんやりとした輪郭。それが、まるで誰かの目に見える。誰かが、その暗い穴から、俺をじっと見ているんだ。
「覗き穴……」
声に出そうとして、喉がひっかかった。乾いた口の奥で、カサカサと音がした気がする。間違いない。誰かが、何かを介して、俺を見張っている。墓地のど真ん中で、こんな時間に。幽霊か?それとも、もっとタチの悪い何かか?
「カタッ……チカッ……カタッ、カタッ……チカッ、チカッ……」
音と光のパターンが、徐々に激しくなる。風が吹くたびに、その「覗き穴」が揺れているように見えた。俺の視界は、もうその一点にしか固定されていない。視野狭窄。本当に厄介だ。視界が狭まるほど、目の前の恐怖が拡大して、逃げ場がなくなる。胃がひっくり返りそうだ。冷や汗が背中を伝って、下着までぐっしょり濡れているのがわかる。
逃げたい。足がすくむ。全身の筋肉が意思に反して硬直している。こんなところで立ちすくんで、一体どうするつもりだ、俺は。幽霊に喰われるか?それとも、得体の知れない何かに連れ去られるか?どちらにしろ、このままじゃまずい。でも、動けない。恐怖で体が麻痺している。まるで全身が鉛でできているみたいだ。この「狐の目は怖さで視野狭窄」のせいで、もう何もかもが現実じゃないみたいだ。早く終わってくれ。
「くそっ……」
情けない声が漏れた。その瞬間、強烈な風が吹き荒れた。土埃が舞い、枯れ葉が擦れる音がする。
そして、その風に煽られるように、俺の視線の先の「覗き穴」の横で、何か大きなものがグラリと揺れた。
視野狭窄のせいで、そこまで認識するのに時間がかかった。
ゆっくりと、視界の端が、ほんの少しだけ広がる。
俺は、震える目を凝らした。
墓地の隅、そこは夜間作業中の建設現場の荷物置き場になっていた。鉄パイプや防水シート、段ボール箱が雑然と積まれている。その資材の山の間、ちょうど積み荷の影になった死角に、それはあった。
「……狐の、面……?」
風で揺れていたのは、建設現場のスタッフが休憩中にでも置いていったのだろうか、赤い塗料が施された狐の面だった。
俺が「覗き穴」だと思っていたのは、その狐の面の目の部分。遠くの街灯か、あるいは建設現場の赤い点滅警告灯の光が、面の目の部分に施された反射しやすい塗料に当たって、それが風で揺れるたびにチカチカと光っていたんだ。
そして「カタッ」という音。それは、風で揺れた面が、そばに積まれた空のプラスチックケースの角に軽く当たっていた音だった。
その瞬間、全身から力が抜けた。
恐怖は、まるで熱病のように一気に冷めていく。
ふっと、胃のむかつきも収まり、冷や汗で濡れていた肌が、ひんやりと冷えていくのを感じた。
「はは……」
乾いた笑いが漏れた。情けなくて、馬鹿らしくて、でも、安堵で。
全身が震える。今度は恐怖ではなく、過剰な緊張が解けた反動だ。
「狐の目は怖さで視野狭窄」も、ようやく少しだけ和らいだ気がした。こんな目で見つめられてたら、そりゃ視野狭窄にもなるわ。もう二度と、こんな真夜中に墓地を散歩するなんて馬鹿な真似はしない。吐きそうだ。本当に。