深夜、壁に「イ」が書かれた。

冷たさの落書き

くそ、まだ夜中の一時だ。こんな時間まで、この底冷えするレンタル倉庫で作業だなんて、冗談にもならない。今日のノルマは終わったはずなのに、なぜか身体の震えが止まらない。いや、正確には、この足元でシュウシュウと音を立てる加湿器のせいだ。業務用の加湿器なんて大層な名前がついてるけど、ただでさえ冷え切った空気に、さらに冷たいミストを撒き散らしてるだけじゃないか。

冷たい加湿器の水音に耐え難く震える双腿が、ガクガクと小刻みに揺れる。太ももの裏側が、もう感覚を失いそうだ。凍死するんじゃないか、私。

ポタ、ポタ、ポタ。

加湿器から壁に伝う水滴の音が、妙に耳障りだ。薄暗い倉庫の壁に、LEDの光が不規則に反射して、なんだか変な影を落としている。壁はコンクリート打ちっぱなしで、ところどころシミや汚れがある。疲れてるからだろうか、そのシミや影が、まるで何かの文字みたいに見えてきた。

遠くで、誰かが指先で壁をなぞっているような、微かな音がする。気のせい? いや、違う。ポタ、ポタ、という加湿器の水音と、その壁の影が、ぴったりと連動しているように感じる。まるで、その音に合わせて誰かが壁に何かを書いているみたいに。

冷たい加湿器の水音に耐え難く震える双腿は、もう制御不能だ。太ももの内側が痙攣しているのがわかる。一人きりのこんな場所で、まさか幽霊の落書きか? 冗談じゃない。

目を凝らすと、壁に浮かび上がっていたのは、ただの汚れや水滴の跡だけではなかった。薄暗い光の中で、それは不自然な「線」の形をとっていた。まるで誰かが、黒いスプレーで雑に線を引いたみたいに。あの音は、やっぱり誰かが何かを書いている音だ。そうとしか思えない。

ポタ、ポタ、ポタ……。
音に合わせて、壁の線が伸びたように見えた。いや、文字が増えた?
「イ」……いや、「1」? 何かの記号?
心臓がドクン、と大きく跳ねた。空気が、一気に冷たくなった気がする。

冷たい加湿器の水音に耐え難く震える双腿が、今度は全身の震えに変わった。歯の根が合わない。誰か、ここにいるの?

ポタ、ポタ、ポタ。
「イ」の横に、また線が追加された。今度は「ロ」か? 「コ」か?
頭の中で、恐怖が膨れ上がっていく。このままここにいたら、私も壁に何か書かれるんじゃないか、なんて馬鹿なことを考えた瞬間、全身の毛穴が開くような悪寒に襲われた。呼吸が浅くなる。この状況は最悪だ。本当に最悪だ。

いや、待て。落ち着け、私。
震える手で、スマホのライトを点けた。細く光るビームを、恐る恐る壁に向ける。
「え……?」
そこに広がっていたのは、ただの濡れたコンクリートの壁だった。

あの「落書き」に見えたものは、加湿器から漏れた冷たい水滴が、壁を伝ってできた濡れた跡だった。古い倉庫の壁には、以前からあったであろう黒っぽいシミが点々と残っていて、そのシミと水滴の軌跡、そしてLEDの光の加減が、私の疲れた目には文字のように見えていたのだ。パレイドリア現象ってやつか。

バカみたい。

加湿器は、ラックの奥にひっそりと隠れるように置かれていた。かつてここにあった冷蔵・冷凍設備──もう撤去されたらしいが──その巨大な影にすっぽりと収まるように。だから今まで気づかなかったんだ。コンセントは、業務用っぽい太い延長コードで、壁の奥の差込口から引っ張ってきてあった。

安堵で、全身の力が抜けた。ガクッと膝から崩れ落ちそうになる。
そういえば、ここ、レンタル倉庫の管理事務所が24時間体制で、冷蔵・冷凍物資の湿度管理を徹底してるんだった。だから、夜中でも加湿器が稼働してる。別に誰かが私を脅かそうとしていたわけじゃない。ただの、仕事道具だったんだ。

はは、と乾いた笑いが漏れた。
冷たい加湿器の水音に耐え難く震える双腿は、相変わらず冷え切って感覚はないけれど、もう恐怖で震えているわけじゃない。ただ、寒さで震えているだけだ。
本当に、疲れてるんだな、私。