
この森の奥に、人の気配なんてあるわけがない。錆びたトタン屋根と、朽ちかけた木材からなる廃屋。よくもまあ、こんな場所まで辿り着いちまったもんだ。一人きりだ。本当に、俺一人きり。それがまずい。足の裏からじわじわと、冷たいものが這い上がってくるような感覚だ。
ったく、また始まった。ここに来てからずっとだ。「一人きりの恐怖で足が震える」。膝がガクガクして、まるで地面に縫い付けられたみたいに動けねえ。この年になると、ちょっとしたことで腰が痛むんだ。この震えのせいで、さらに腰が軋む。ちくしょう、どこを見ても蜘蛛の巣と埃だらけで、肺までザラザラする気がする。壁の染みなんかも、何かの顔に見えてきやがる。ここには誰もいないはずだ。分かってる。なのに、なんだか背中がぞわつく。肌の奥底が粟立つような、妙な居心地の悪さだ。
その時だ。鼻腔を掠める、甘ったるいような、焦げたような匂い。線香の匂い、か? こんな廃屋で? 胃のあたりがぐっと締め付けられる。心臓が喉まで飛び出してきそうな勢いで脈打った。
「誰だ、そこにいるのか?」
喉がひりついて、掠れた声しか出やしねえ。心臓がバクバク言ってるのが、耳の奥でうるさいほどだ。脂汗が額から滲み出て、目に入りそうだ。また、足が震える。今度はさっきよりもひどい。ガタガタと、まるでマラカスを振っているみたいだ。
「おい、冗談じゃねえぞ。幽霊か?」
全身の毛穴がブワッと開くような感覚に襲われた。耳を澄ますと、ザラザラとした床板の上を、何かを引きずるような音が微かに響く。まさか、足音か? いや、そんなはずはねえ。目を凝らしても、奥は漆黒の闇だ。視界が暗闇に溶けていくみたいで、息が詰まる。この歳になって、こんな思いをするとはな。本当に情けねえ。「一人きりの恐怖で足が震える」。もういい加減にしてくれよ、このガタガタ。動こうにも、足に力が入らねえんだ。膝の皿が外れるかと思うくらいだ。
線香の匂いが、一層強くなった。鼻の奥までツンとくる。もう、吐き気がするほどだ。全身の神経が、鉛のように重くなっていく。逃げたい。今すぐ、ここから逃げ出して、あの明るい日差しの下へ転がり出たい。だが、出口はどこだ? どこを見ても同じような廃材と、崩れかけた壁ばかり。
「誰か、誰か助けてくれ…!」
叫んでみたが、自分の声が虚しく空間に吸い込まれるだけだった。助けを求める声なんて、どこにも届きやしねえ。体が硬直して、指先まで冷え切っている。鼓動が速すぎて、まるで心臓が破裂しそうだ。
「一人きりの恐怖で足が震える」。もう、足が震えるなんてもんじゃねえ。全身が痙攣してるみたいだ。このままじゃ、本当に泡を吹いて倒れちまう。くそっ、こんなところで、みっともなく死ぬなんてごめんだぜ。
必死で、目の前の闇を這うように視線を巡らせた。ふと、壁際に何かが鎮座しているのが見えた。ぼんやりとした輪郭。ん? あれは……人形か?
日本人形だ。古びて、髪も乱れた、薄汚れた人形が、じっとこっちを見ているように感じる。ゾッとしたが、同時に妙な安心感も覚えた。俺の視線が、その人形のすぐ傍らにあるものに止まった。
線香立てだ。
ああ、これか。これだったのか。肩の力が、ゆっくりと抜けていく。呼吸が、ようやく深くなった。匂いは、こいつから漂っていたのか。思わず、口元が緩んだ。なんだ、そんなことだったのか。拍子抜けだな。
「まさか、これがあの線香の匂いの原因だったとはな…」
俺は、ホッとして床を叩いてみた。足音の正体を探ろうとしたんだ。すると、その日本人形の頭が、カクン、カクンと上下に揺れた。
「お前…生きているのか?」
なんだかおかしくなって、枯れた笑いが込み上げてきた。が、笑いながらも、まだ足は小刻みに震えている。「一人きりの恐怖で足が震える」は、完全に消えたわけじゃないらしい。だけど、さっきまでのあの地獄のような恐怖からは、一瞬だけ解放された。ただの、人形。ただの、線香。そうか、そうだったのか。
俺はゆっくりと、震える足を引きずりながら、立ち上がった。