
ひんやりとした空気が肌を這い、背中を冷たい汗が伝う。ここが巷で噂の事故物件か。壁には湿ったカビの染みが地図みたいに広がっていて、鼻腔には埃と何かの腐敗したような匂いがまとわりつく。吐き気が込み上げてくるのを必死で飲み込んだ。こんな場所にいると、昔のあの嫌な記憶がまた、喉の奥からせり上がってくるような錯覚に陥る。くそ、またこれだ。胃がキリキリ痛みだして、昔、給食室の裏で先輩たちに囲まれた時と同じ気分だ。あの時も、こんな風に息が詰まって、吐きそうだった。なんで今、こんな肝心な時に、わざわざ過去のトラウマが蘇る錯覚を味あわなきゃならないんだ。この不快感、本当に勘弁してほしい。
懐中電灯の光が部屋の隅々を舐めるように動く。突然、カタン、と何かが軋む音がした。心臓がドクンと嫌な音を立てて、胃の痙攣がひどくなる。視線を壁に戻すと、そこに、黒い四角い模様が浮かび上がっているのに気づいた。一瞬、目を凝らしたが、どう見てもQRコードだ。何かの光の反射だろうか? いや、違う。壁に、はっきりと。まさか、亡霊からのメッセージか? 喉がカラカラに乾いて、唾を飲み込むことすらできない。
あの時と全く同じだ。中学の時、俺は「怪しいサイトを共有する」って理由で、クラスの連中にいじめられた。実際には全然そんなことしてなかったのに、一方的に責め立てられて、まるで俺が悪いみたいに。あの時の、顔を真っ赤にして迫ってくる連中の顔が、今、壁に浮かんだQRコードの背景に重なって見える。ああ、気持ち悪い。本当に気持ちが悪い。手のひらがじっとり湿って、懐中電灯を持つ手が滑りそうになる。この胸の締め付けられるような苦しさ、本当にどうにかしてくれ。俺はもう30代の大人なんだぞ。こんなところで、昔のガキのいじめの記憶に苛まれてるなんて、情けなさすぎる。
俺は部屋の中を、半狂乱になって駆け回った。どこからともなく、ヒュウ、と風が抜けるような音が聞こえる。壁に浮かんだQRコードは、俺が動くたびに増えていくように見えた。一つ、また一つと、まるで俺を囲い込むように。呼吸が荒くなり、肺がヒューヒューと鳴る。酸素が足りない。耳の奥で、甲高い金属音が響き渡る。全身の筋肉が硬直し、足がもつれる。
そして、その時だ。壁に、ひときわ大きく、黒い文字が浮かび上がった。「逃げろ」。
背筋に冷たいものが走った。それはまるで、脊髄に氷の刃を突き立てられたような感覚だ。全身から血の気が引いていくのがわかる。また、あの悪夢だ。みんなが俺を指差して、一斉に「出て行け」と叫んだ、あの日の悪夢。あの時の声が、今、この部屋のどこからか聞こえてくるような錯覚に陥る。身体中が震えだして、歯の根が合わない。吐きそうだ。本当に吐いてしまいそうになる。この胸の奥から込み上げてくる泥のような不快感は、いつになったら消えてくれるんだ。本当に、もう、やめてくれ。
ガタガタと震える手で、俺は懐中電灯を握り直した。その瞬間、偶然にも、懐中電灯の光が床に落ちていた鏡の破片に反射し、部屋中に光が乱舞した。そして、その光が壁に当たった瞬間、今まで俺を怯えさせていたQRコードも、「逃げろ」の文字も、全てが掻き消えた。
呆然と立ち尽くす。
…なんだ?
もう一度、懐中電中を壁に向ける。光を動かすと、壁に影が揺らめく。そして、その影が、光の加減で、まるでQRコードのように見えたり、文字のように見えたりするのだ。
全ては、懐中電灯の光の反射と影が作り出した、ただの錯覚だった。
ふと、肩の力が抜ける。全身の筋肉が緩み、まるで糸が切れた人形のように、その場にへたり込んだ。胃のキリキリも、胸の締め付けも、嘘みたいに消えていく。馬鹿みたいだ。俺は結局、何に怯えていたんだ? 亡霊からのメッセージ? そんなもの、最初からどこにもなかった。ただの光と影。そして、俺自身の、過去のトラウマが蘇る錯覚が、俺を勝手に追い詰めていただけだ。なんだか、急に空腹感を感じる。そういえば、朝から何も食べていなかった。ああ、情けない。こんなところで一人、勝手にパニックになって、本当に情けない。