
またこの時間だ。もう日付もとっくに変わってる。アパートのエントランスを抜けるたびに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような不快感に襲われる。最近、ろくなことない。あいつらとの一件以来、俺は完全に蚊帳の外だ。SNSを開けば、楽しそうに笑い合う元友人の写真が目に飛び込んでくる。俺がいない、あの輪の中に。胃のあたりがズキズキと痛む。物理的に、だ。ストレスってやつは、本当に人の身体を蝕むんだな。
オートロックのドアをくぐり抜け、自分のフロアへ向かおうとエレベーターホールを過ぎた、その時だった。視界の端に、違和感が引っかかった。エントランスの、あの大きな窓ガラス。そこに、なんか、妙なものがへばりついている。
思わず足を止めて、目を凝らした。
暗闇に慣れた目には、それが黒い影のように見えた。ひょっとしたら、誰かの手のひら…?いや、でも、こんな時間に誰が?しかも、窓ガラスの外側からだ。誰かが、ここに、張り付いていたのか?
どくん、と心臓が鳴った。妙に生々しい、べったりとした跡。掌から指先にかけての輪郭が、ぼんやりと浮かび上がっているように見える。錯覚だ。きっと、ガラスの汚れか、夜の街灯の反射が、たまたまそう見せているだけだ。パレイドリアってやつだろ。俺の神経が参ってる証拠だ。最近、どうにも集中力が続かない。あいつらのことばかり考えてしまう。俺が、あの時、あんなこと言わなければ。いや、でも、悪いのはあいつらの方だろ。俺は何も間違ってない。
だが、その「手形」のような跡は、ガラスの向こう、外の世界と俺を隔てる透明な壁に、しがみついているように見えた。薄暗いエントランスの照明が、その輪郭をより曖昧に、不気味に強調している。まるで、誰かがガラスの向こうから、俺を覗き込んでいるみたいに。嫌な汗が背筋を伝う。
遠くから、低い振動音が響いてきた。この時間までやってる工事現場の重機かなんかの音だろう。ズズズン、と地面を這うような重い音が、不規則に鼓膜を揺らす。そして、どこからか吹き込む夜風が、ヒュー、とエントランスの隙間を抜けていく。その全てが、俺の神経を逆撫でする。
「…なんだよ、これ」
声に出して言ってみたものの、返事はない。当然だ。誰もいない。俺は、ずっと一人だ。あいつらにも見放されて、まるでこの世から一人だけ追放されたみたいに。そんな俺を、誰かが見ている?こんな、夜中に?
その「手形」が、わずかに、本当にわずかに、動いたような気がした。錯覚だ。絶対、錯覚。だが、一度そう思ってしまうと、もう目から離せない。指の先が、ガラスを這うように、じわりと伸びたような……いや、違う、違う、ただの影だ。影と、ガラスについた水滴が重なってそう見えるんだ。
心臓の鼓動が、全身に響き渡る。ドクン、ドクン、ドクン。あまりの恐怖に、身体が震えだす。こんなところにいたらダメだ。早く、自分の部屋に。俺だけの空間に。
半ばパニックになりながら、背を向けてエントランスのドアを閉めようとした。自動ドアの開閉ボタンに手を伸ばす。閉じる。この不気味な気配から、逃げたい。
ウィーン、というモーター音と共に、ドアがゆっくりと閉じ始めた。その瞬間、エントランスの照明がフッと消えた。
嘘だろ。
辺りは一瞬で漆黒の闇に包まれた。非常灯のぼんやりとした光が、辛うじて足元を照らす程度。そして、ガラスの向こうの「手形」は、もはや影すら見えない。ただ、そこに、闇と同化して、じっと俺を見ているような気がした。
俺は、本当に一人だ。暗闇の中に、たった一人。
「追い出される」という感覚が、頭の中でぐるぐると渦巻く。あいつらから追い出され、今度はこんな場所からも。全身の毛穴が開きっぱなしのような、ぞわぞわとした生理的な不快感が喉元までせり上がってくる。息が苦しい。
次の日の朝、胃のむかつきと頭痛で目を覚ました。寝不足だ。また昨日のことを思い出して、眠れなかった。あいつらへの憎しみと、自分への後悔で、頭の中がぐちゃぐちゃだ。とりあえず、仕事に行かなくちゃならない。重い身体を引きずって、エントランスへ向かう。
昨日の恐怖が嘘のように、朝の光が窓ガラスから差し込んでいる。あの「手形」は、もうどこにも見当たらない。昨日の幻だったのか?
念のため、昨日の時間帯のエントランスの防犯カメラの映像を確認することにした。管理室に連絡し、確認させてもらう。
モニターに映し出された昨夜の映像。
確かに、俺がエントランスに入ってくる。そして、窓ガラスの前で立ち止まり、何かに怯えている。その時、窓ガラスの奥、清掃用具置き場の影になった場所に、何かが置かれているのが見えた。よく見ると、それは警備員が着るような、厚手の防寒服だ。
さらに映像を進めると、深夜、警備員がエントランスの自動ドアの点検作業をしているのが映っていた。彼が作業を終え、その場を離れる際、着ていた防寒服を、エントランスの隅、あの清掃用具置き場の陰に、まるで物置の隙間に押し込まれたように置いていく。どうやら、夜間作業の後で持ち運びが困難だったのと、翌日の早朝にもまた作業があるから、一時的にそこに保管していたらしい。
そして、その防寒服の袖口。白いゴム製の伸縮性のある部分が、ガラスにべったりと触れていて、それが夜間の照明の反射で影になり、俺には「手形」のように見えたのだ。あの薄暗い中、俺の不安定な精神状態が、見慣れないものを不気味なものとして認識させただけ。
なんだ、そういうことか。
脱力感が身体を襲う。どっと疲れた。こんなことで、俺は昨夜、あんなに怯えていたのか。バカみたいだ。
でも、同時に、少しだけ理解したような気もする。俺は、今、極端に孤独だ。誰にも理解されないし、誰にも必要とされていない。そんな中で、自分自身が作り出した恐怖にすら、怯えていた。まるで、俺の心の中に潜む、自分自身への不信感や不安が、形となって現れたみたいに。
あの「手形」は、俺自身の心の声だったのかもしれない。誰にも届かない、俺の孤独な叫び。そう考えると、少しだけ、胃の痛みが和らいだような気がした。
だが、あの友人たちとの確執は、まだ解決していない。俺の孤独は、まだ終わらない。
今日もまた、俺は一人、このアパートの部屋に帰る。