屋上の耳鳴り

屋上のフェンスに凭れて、私はただぼんやりとスマホを握りしめていた。もう何度、画面を点けては消しただろう。連絡先。それがない。子どもの無事を確認するための、たった一つの連絡先がない。こんな時、誰に聞けばいい? どこに電話をかければいいんだ。胃の奥がキリキリと痛む。またこの痛みだ。ここ数日、まともに食事も喉を通らない。

「はぁ……」

乾いた息を吐く。風が妙に生ぬるい。マンションの屋上はいつもより静かだった。誰もいない。昼間は洗濯物を干す主婦で賑わうのに、この時間はひっそりとしている。それが余計に、私の孤独感を際立たせる。

その静けさの中に、何か、微かな音が混じり始めた。キーン、と。ごく薄い、高周波の音。最初は、遠くの工事現場か、それとも頭の中を流れる血の音かと思った。最近、やけに耳が遠くなった気がする。歳のせいだろうか。40も過ぎればガタが来る、なんて聞くけれど、まさかこんなにも早く……。

スマホの画面をもう一度点けてみる。どこにも、連絡できる相手の名前がない。履歴も、空っぽだ。こんなことになって、一体どうすればいいんだ。あの時、もっとしっかりしておけばよかったのか。あの時、あの時。後悔ばかりが押し寄せて、頭の奥がズキズキと痛む。吐きそうだ。

キーン、キーン。

耳鳴りが、さっきよりも少し強くなった気がする。気のせいか? 疲れからくる幻聴かもしれない。私は自分の耳を指でグリグリと押してみた。ゴリゴリと軟骨が軋む音がする。それでも、音は消えない。むしろ、耳の奥、頭蓋骨の真ん中で響いているような、嫌な感覚がしてきた。まるで、頭の中に小さな機械が埋め込まれていて、それが今、故障し始めたかのように。

「……っ」

冷たい脂汗が、背中をぞわっと伝う。心臓がドクンと嫌な音を立てた。これは、私の中から聞こえる音だ。外の世界の音じゃない。身体の内部が、何かに侵食されていくような不快感。子どもの連絡先がない、という現実が、私の精神を蝕んでいるからだろうか。こんな異常な状態になったのは、きっとそのせいだ。私の脳が、もう限界なんだ。

屋上のフェンスから、下を見下ろす。この高さから飛び降りたら、この耳鳴りも、子どもへの不安も、全部消えるだろうか。そんな馬鹿なことを一瞬でも考えてしまう自分が、本当に嫌になる。膝がガクガクと震える。高所恐怖症ではなかったはずなのに。

「やめて……」

誰もいない屋上で、私は小さく呟いた。耳鳴りは止まらない。高音で、まるで脳を直接掻き混ぜられているみたいだ。この音が、私の恐怖心を増幅させていく。原因がわからない。どこを見ても、それらしいものはない。空はいつも通り、マンションの壁もいつも通り、遠くの街並みもいつも通り。

なのに、なぜ。

私の鼓膜の奥で、ジリジリと、キーンと、音が響き続ける。まるで、この世の終わりの警鐘のように。恐怖で呼吸が浅くなる。喉の奥がカラカラだ。子どもは今、どうしているだろう。どこで何をしている? 無事だろうか? あの時、連絡先を交換しておけば。どんな形でもいい。メモでも、手書きでも、何でもよかったのに。

その時だった。

ふと、脳裏に一つの映像がよぎった。隣の棟の、一番奥の部屋。あの部屋の、あの仏壇。最近、引っ越してきたばかりの老夫婦が、やけに立派な仏壇を置いたと、管理人の奥さんが言っていた。そして、あの仏壇には、妙な電子音が鳴る仕掛けがしてあるとも。電子線香とか、自動読経機能とか、そんなのが付いているんだ、と。

まさか。

私は踵を返した。足がもつれる。階段を駆け下りる。一段飛ばしで降りようとして、膝にガツンと痛みが走った。くそ、歳だ。息が切れる。肺がヒューヒュー鳴っている。それでも、耳鳴りはまだ続いている。いや、少しだけ、小さくなった気がする。

自分の部屋のドアを開け、隣の棟に面した窓に駆け寄る。窓を開け放つ。隣棟の奥まった部屋の窓から、微かに、電子的な音が漏れ聞こえてくる。キーン、という高音。そして、ジーッという低音。

それは、私の耳鳴りと同じ音だった。

窓を閉めると、耳鳴りはピタリと止まった。

私は、その場にへたり込んだ。あまりのことに、全身の力が抜けていく。天井を見上げ、壁を見つめ、そして自分の掌を見る。脂汗でべっとりだ。

仏壇。仏壇の、音漏れ。それだけ。たったそれだけのことが、私をこんなにも追い詰めたのか。

「あは……、ははははは……」

乾いた笑いが、喉の奥から込み上げてくる。力が抜けて、笑いしか出てこない。安堵と、自分への呆れと、そして、やっぱり消えない子どもの連絡先への絶望と。色々な感情が混ざり合って、私の頬を、一筋の涙が伝っていった。

これで耳鳴りは止まった。でも、私の不安は、何も解決していない。また明日、この地獄が始まる。