非常階段の熱い吐息

まただよ。本当に、本当に嫌だ。バイト帰りのこの時間、この古くて薄暗い非常階段を通るのが、一番の苦痛だ。なんでうちのマンション、エレベーターが一つしかないんだよ。しかもそれが深夜は低層階には止まらないとか、馬鹿なの? もういい加減にしてほしい。

出口のドアまであと数段、ってところで、私の足はアスファルトに根を生やしたかのようにピクリとも動かなくなった。膝から下が鉛みたいに重い。全身の毛穴がキュッと締まって、背筋に冷たいものが這い上がる。心臓がドクドク、ドクドク、耳元で煩い。うるさい、死ね。早く進めよ私。でも無理。本当に無理なんだ。この、見えない何かに見張られているような感覚。息が詰まる。誰かいないの? お願いだから、誰か来てよ。もうこの「非常階段での一人ぼっち恐怖で足がすくむ」って状態、いい加減にしてほしい。毎日毎日、同じ恐怖に苛まれて、もう私の精神は限界なんだ。

その時だった。

背中に、じわっと生温かい風を感じた。
「ひっ……」
喉から変な音が漏れた。振り返りたくない。絶対、振り返りたくない。何かがいる。何か、人間じゃない、嫌なものが。風と一緒に、鈍いモーターの唸りみたいな音が聞こえる。ブゥン、と低い振動が空気を伝って、私の耳の奥をくすぐる。それは、規則的だけど、どこか不揃いな、まるで古い機械が無理やり動かされているような軋みを含んだ音だ。

「や、やめて……」
声にならない声で呟いた。足はやっぱり動かない。恐怖で足がすくむ、どころじゃない。もう足の感覚が麻痺してる。全身がガチガチに固まって、冷や汗が背中を伝うのがわかる。この生温かい風は何? どこから? そしてこの音。絶対、誰かが近づいてきてる。いや、誰かじゃない。何かだ。だって、こんな夜中に、こんなところに人がいるわけない。この非常階段、夜は誰も使わないんだから。まさか、あの噂の幽霊? いやいやいや、そんなはずない。でも、でも、この風と音は? 私の思考はぐちゃぐちゃになって、頭の中はパニックで真っ白だ。吐きそうだ。胃のあたりがムカムカする。

ブゥン、という音は少しずつ大きくなっている気がする。風も、さっきより生温かい。まるで、大きな生き物が、じりじりと距離を詰めてきているみたいに。壁に背中を押し付けて、私はただ、目をギュッと瞑っていた。早く、早く終われ。この悪夢が。もう、本当に、いい加減にしてくれよ。毎日毎日、この「非常階段での一人ぼっち恐怖で足がすくむ」状態に陥って、体も心もボロボロなんだ。このままじゃ、本当に倒れちゃう。

どれくらいの時間が経ったのか分からない。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。でも、もう限界だった。このままじゃ、恐怖で意識が飛びそうだ。

震える足に、無理やり力を込めた。ギギギ、と軋むような音を立てて、ゆっくりと体を反転させる。

そこにいたのは、幽霊でも、変質者でもなかった。

そこにあったのは、見慣れない……セルフレジの機械? なんだこれ?
非常階段の隅、壁にへばりつくように置かれたそれは、確かに私の背中に向かって温かい空気を吐き出し、ブゥン、と鈍いモーター音を唸らせていた。埃を被ったその機械の側面からは、タコ足配線で伸ばされた延長コードが、非常灯の近くにある仮設コンセントに繋がっているのが見える。

「は……?」
呆然と、その機械を見つめる。え、マジ? これのせい?
よく見れば、機械の向こう側には、いつも見慣れた防犯カメラがパチパチと点滅している。あれ? 確か、今日の昼間、管理人が「防犯カメラが故障して点検中だから、一時的に何か移動させるかも」とか言ってたような……。それがまさか、こんなところにセルフレジを一時的に置くなんて。しかも、暗いから全然見えなかった。あの機械の横に、他の清掃用具が山積みになってて、完全に死角になってたんだ。

なんだよ。なんだよもう!
恐怖で足がすくんでいたのは、幽霊とかじゃなくて、まさかのセルフレジの暖気とモーター音のせいだったなんて。一気に体の力が抜けて、その場にへたり込んだ。情けなくて、悔しくて、でも安堵もあって。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、私はただ、呼吸を整えることしかできなかった。

ああ、もう、心臓が痛い。本当に勘弁してくれよ。こんなくだらないことで、また「非常階段での一人ぼっち恐怖で足がすくむ」体験しちゃったじゃないか。最悪だ。本当に最悪。早く家に帰って、あったかいお風呂に入りたい。そして、二度と非常階段なんて使わない。絶対だ。