
もう、最悪だ。なんでこんなところに迷い込んじゃったんだろ。旅館の開かずの間。名前からしてヤバいのに、本当に開かずの間だったなんて。深夜に、ちょっと探検気分でうろうろした私が馬鹿だった。鍵、なんで開いてたんだろ。いや、鍵がかかってるのを無理やり開けたのは私だ。ごめんなさい。でも、もう、引き返せない。
部屋の中は、なんというか、空気が重い。埃っぽいとかそういうレベルじゃなくて、もう何十年も誰も足を踏み入れてないんじゃないかっていう、湿った、澱んだ空気。ひんやりした空気が皮膚にまとわりついて、鳥肌が止まらない。暗い。スマホのライトをつけようかと思ったけど、なんか、つけたらもっとヤバいものが見えそうで、指が動かない。息をするのも怖くて、喉の奥が乾いて痛い。心臓がドクドクうるさい。耳の奥で、自分の血潮が脈打つ音しか聞こえない。まさに、開かずの間の不気味な静寂に閉じ込められた感じ。このまま窒息するんじゃないかってくらい、息苦しい。
扉は、開けたままにしてある。なのに、その隙間から、変な匂いがする。最初は気のせいかと思った。なんか、古いものの匂い?カビ?いや、違う。もっと、こう、鼻の奥にツンとくるような、懐かしいような、でも、今は絶対嗅ぎたくないような……線香の匂いだ。
ゾッとした。なんでこんなところに線香の匂いが?誰もいないはずなのに。部屋の中、薄っすらとスマホの画面の明かりが反射して、ぼんやりとだけど、何もないのがわかる。いや、正確には、ゴチャゴチャと物が積み上がってるけど、人の気配なんて全くない。なのに、線香の匂いがする。それも、だんだん強くなってる気がする。
心臓がもう、喉まで飛び出しそうだ。胃のあたりがキューッと締め付けられて、吐き気がする。さっき食べた夕飯が逆流してきそう。本当に誰もいないの?どこかに隠れてる?でも、この静寂は、そんな可能性を完全に否定している。音一つしない。私の荒い息遣いと、心臓の音だけが、耳の中で爆音みたいに響いてる。開かずの間の不気味な静寂に閉じ込められた感じが、もう限界。このまま動けなくなって、ここで見つからないまま朝を迎えるんじゃないかって、本気で思った。足の指先が冷たい。冷や汗が背中を伝う。
線香の匂いが、もう、鼻腔を通り越して脳みそに直接届いてるみたいだ。頭がガンガンする。吐きそう。もう無理。逃げたい。足がすくんで動かない。
勇気を振り絞って、一歩、踏み出した。もう、このままだと本当に気絶しそうだったから。その瞬間、信じられないことに、線香の匂いが、スッと消えた。あれ?今までの匂いは何だったの?
代わりに、暗闇の奥の方から、ごく小さな音がした。カツン、というよりは、カラカラ、みたいな、すごく軽い音。埃が舞い上がったような、木材が軋んだような、そんな微かな音。なに?あれは何だ?耳を澄ます。もう一度、カラ、と鳴った。
もう我慢できない。スマホのライトを思い切り点けた。
光が、真っ先に捉えたのは、部屋の奥、積み上げられた古い毛布や箱の隙間から、ヌッと顔を出しているそれだった。
日本人形。
埃をかぶって、髪の毛は乱れて、着物もくたびれてる。薄暗い中でも、その顔は妙に生々しく見えて、思わず「ひっ」と声が出た。さっきの音は、埃まみれのその人形の頭が、私が動いた振動か、空気の対流で少しだけ揺れて、木と木が擦れた音だったみたいだ。
よく見ると、人形の顔とか手とか、木でできてる部分が、なんだか乾燥してるというか、ひび割れてるみたいだ。そこから、細かい粉みたいなのが舞ってるのが、スマホのライトでかろうじて見える。ああ、これか。この粉が、線香の匂いみたいに感じられたんだ。古びた木材が乾燥して、微細な粒子を空気中に放出してただけ。
「なんだ、ただの人形か……」
安堵した瞬間、全身の力が抜けた。膝から崩れ落ちそうになったけど、なんとか踏みとどまる。もう、生理的に無理。気持ち悪い。
そういえば、この旅館、昔、地元の伝統工芸品を展示するイベントとかやってたっけ。その時の展示物か、それか、誰かがここに一時的に置いて、そのまま忘れ去られた人形なんだろう。開かずの間に置かれるなんて、人形も不憫なもんだ。
もう二度とこんなところには来ない。絶対に。全身から汗が噴き出して、ぐったりした。早く自分の部屋に戻って、シャワー浴びたい。開かずの間の不気味な静寂に閉じ込められて、もう、心底疲れた。二度と、こんな肝試しみたいな真似はしない。そう誓って、私は重い足を引きずりながら、この澱んだ部屋を後にした。