
胃がムカムカする。まただ。ここ数日、まともに食ったもんも消化してる気がしねぇ。あの野郎の顔を見るたび、胸糞が悪くなる。息子だなんだって言っても、もう俺も五十を過ぎた。あいつだって、もうとっくに大人だ。なのに、なんであんなに俺に突っかかってくるんだ? 俺が、何をしたっていうんだ……。
夜の底に、街の灯りも遠慮がちに滲む中、俺はあてもなく歩いていた。気がつきゃ、こんな古い神社に辿り着いてた。鬱蒼とした木々の合間に、ぼんやりと鳥居の影が浮かび上がってる。こんな時間に、こんな場所をうろつくなんて、我ながらどうかしてる。これも全部、あの息子のせいだ。あいつと顔を合わせるのが嫌で、家にいたくなくて、結局こんなところまで。
足が重い。鉛でも仕込まれたみてぇに、一歩踏み出すたびに膝がギシギシ鳴る。ああ、腰も痛てぇな。最近、体力の衰えをひしひしと感じる。昔はこんなんじゃなかったのに。息子にだって、俺の若い頃はもっと凄かったんだって言っても、鼻で笑われるだけだ。もう聞く耳なんか持ってねぇ。
鳥居の脇を通り過ぎようとした、その時だ。
足元が、急に凍り付いたみてぇに動かなくなった。いや、動けなくなった、と言った方が正しい。全身の毛穴という毛穴が開き、冷たい空気が肺の奥まで流れ込んでくる。呼吸が浅くなる。ドクン、ドクン、と心臓がやけにうるせぇ。
なんだ、今の音は?
風が、木々の間を抜けていく音とは違う。微かに、衣擦れのような、硬いものが擦れるような音がした。カサカサ、とも違う。もう少し、重くて、粘りつくような。
暗闇に目が慣れてくると、鳥居の、ちょうど裏手に当たる場所に、何か黒い塊が見えた。高さは、ちょうど、人間くらいか。いや、それより、少し背が高いようにも見える。街灯の光が届かねぇ死角だ。
まさか……人か?
心臓が喉までせり上がってくる。こんな深夜の神社で、一体誰が。それに、あの立ち方はなんだ? まるで、微動だにしない。いや、もしかしたら、わずかに揺れているのかもしれない。風のせいか? いや、風で揺れるにしては、その影はあまりに不自然だ。
頭の中に、息子との言い争いの声が響く。「親父はいつもそうだ! 自分のことしか考えてない!」あの声、あの顔。俺は、本当にそんなにひどい親だったか? ただ、お前には真っ当に生きて欲しかっただけなのに。それが、そんなに間違っていたのか?
冷や汗が、背中を伝う。ゾワリ、と鳥肌が立った。金縛りだ。足が、一歩も動かねぇ。ただの錯覚だ、そう言い聞かせようとするのに、理性は恐怖に飲み込まれていく。
もう一度、注意深く、目を凝らす。影は、やはり動かない。だが、風が吹くたび、微かに、本当に微かに、その形が揺らぐように見えた。まるで、ゆっくりと首を傾げたかのように。いや、気のせいだ。きっと、木の枝の影と、何かのシミが重なって、そう見えただけだ。パレイドリア、だったか? そんな言葉が頭の片隅をよぎる。
それでも、その不気味な存在から目が離せない。もし、あれが人間だとしたら? なぜ、あんなところに立っている? 何をしているんだ?
「おい……」
声が、掠れて喉の奥で詰まる。
その時、風が強まった。ヒュー、と木々の葉がざわめく。それに合わせて、鳥居の裏手の影が、はっきりと揺れた。いや、動いたのだ。まるで、ゆっくりと腕を上げたかのように。
俺は、とっさに身を屈めて、近くの木の陰に隠れた。心臓がバクバクとうるせぇ。こんなところで、何が起こってるんだ? まさか、幽霊か? そんな馬鹿な。この歳になって、幽霊なんて信じられるか。だが、あの影の動きは……。
胃がまたキュッと締め付けられる。息子よ、お前が俺に突きつけた言葉の数々が、今、この恐怖の中でフラッシュバックする。俺は、お前に謝らなきゃいけないことが、まだあったのか? このまま、俺はここで、何かに襲われるのか?
息を殺し、じっと様子を伺う。風は、まだ吹いている。鳥居の裏手の影は、今度は、まるで体を傾けるように、ゆっくりと、しかし確実に動いているように見えた。
もうダメだ。俺は、ここで。
その時、再び強い風が吹き、鳥居の裏手の暗がりを覆っていた木々の枝が大きく揺れた。そして、一瞬、月の光が差した。
その光の中に、はっきりと、そいつの姿が浮かび上がった。
マネキンだ。
人間の背丈をゆうに超える、すらりとしたマネキンが、まるで仁王立ちするかのように、そこに立っていた。夜の闇の中、鳥居の柱の陰に隠れるように置かれていたため、全く気づかなかったのだ。
風に煽られて、マネキンが着ていた展示用のドレスの裾がバサバサと音を立てる。そして、その首筋には、値札のようなものがぶら下がっていた。よく見ると、小さな文字で、近くの百貨店のロゴと、「催事用」と書かれている。
脱力した。全身の力が、一気に抜けていく。ドサリと、その場にへたり込んだ。
なんだ、マネキンかよ。
俺は、全身の冷や汗が、今度はべっとりと肌に張り付くのを感じた。情けねぇ。こんな、ただのマネキン相手に、ここまで恐怖を感じるとは。
百貨店が催事をやって、その準備か片付けで、一時的にここに置いていたんだろう。鳥居の裏手で、しかも暗闇。そりゃ、見えねぇわけだ。
しかし、あの影が、まるで息子に見えたのは、なぜだ? あの不気味な立ち姿、動かないのに、動くように見えた錯覚。それは、俺が息子に対して抱いている、得体の知れない恐怖と、もしかしたら、同じものだったのかもしれない。
結局、俺は、何に怯えていたんだ? 目の前のマネキンか? いや、違う。俺は、ずっと、自分自身の心に巣食う、あの息子との確執、そして、自分の不甲斐なさに怯えていたんだ。
夜の冷たい風が、生ぬるい汗を冷やしていく。全身が、ガタガタと震え始めた。こんなことなら、さっさと家に帰って、あの憎たらしい息子と、もう一度、腹を割って話せばよかったのかもしれない。いや、無理か。あいつは、もう俺の言葉なんか、聞く耳持っちゃいねぇだろうからな。
はあ、とため息をついた。もう、足も腰も限界だ。このマネキンが、なんだか、俺自身を見ているように思えてきた。この歳になっても、まだ、こんな情けない幻に怯えるなんて。
息子よ、お前は、この先、どんな幻を見るんだろうな。俺みたいに、夜の神社で、何かに怯えたりするんだろうか。いや、お前はきっと、俺とは違う。もっと、しっかり生きていくんだろう。
そうであってほしい、と、心の底から思った。そして、また胃がむかっとした。