試着室の壁、血の滲むSOS

ああ、もう、何やってるんだろう、私は。こんな閉店後のデパートの試着室に一人ぼっちで。
美咲からの連絡が途絶えて、もう二時間。スマホを握りしめたまま、何度画面を点灯させたか分からない。最後の既読は、たった「うん」の一言。それが午後九時半。それからずっと音沙汰がない。あの娘に限って、こんな時間にどこかで遊んでるなんてことは……いや、分からない。最近は反抗期真っ盛りだし、私の言うことなんて聞く耳持たない。でも、こんなに連絡が途絶えるなんて。

胃がキリキリと痛む。さっきからずっとだ。空調の音だけが虚しく響く、薄暗い試着室は、まるで私自身の心の中みたいに、静かで、冷たくて、不安でいっぱいだ。疲れているせいか、頭の奥がズキズキと痛む。目の前が霞むような気がする。

その時だった。
壁の向こうから、微かな、まるで古い蛍光灯が唸るような、甲高いキィンという音がした。耳鳴りかと思ったけれど、違う。もっと機械的な、不快な音。同時に、壁の隅に、チカッと小さな赤い光が灯ったのが見えた。
は、何?

目を凝らす。赤い光は壁の染みと重なって、まるで血が滲んだかのように見える。そして、その光のせいで、壁紙の剥がれかけた部分や、誰かがつけた引っ掻き傷が、ぼんやりと何か文字のように見え始めた。
気のせいだ、きっと。疲れてるんだ。美咲のことで神経が過敏になってるんだ。
そう自分に言い聞かせるけれど、心臓はドクドクと不規則に脈打つ。手のひらはじっとりと汗ばんでいる。

キィン、キィン……。音は続いている。さっきよりも少しだけ、はっきりと聞こえる気がする。
そして、あの赤い光。点滅している。まるで、誰かが私に合図を送っているみたいに。
壁のシミが、影と重なって、意味のある形に見える。
「タスケテ」
まさか。空目だ。そうに決まってる。こんなところに、そんな文字が浮かび上がるはずがない。
でも、もし、もし美咲が…何か、危険な目に遭っていて、誰かがこの壁にメッセージを残したんだとしたら?そんなバカな。でも、頭の中ではもう、最悪のシナリオばかりが駆け巡る。娘が知らない誰かに連れ去られて、このデパートのどこかに閉じ込められていて、助けを求めている……?

「ひっ…!」
思わず息を呑んだ。全身の毛穴がざわっと開いて、鳥肌が立つ。
壁の文字が、はっきりと見えた気がした。今度はもっと複雑な、絵のようなものも。
誰かの顔?それとも、何か恐ろしい印?
胃の奥からこみ上げてくる吐き気をごくりと飲み込んだ。足が、鉛のように重い。動けない。
美咲…美咲、どこにいるの?無事なの?
もう、何が現実で何が幻なのか、分からなくなりそうだ。この薄暗い空間が、私をどんどん追い詰めていく。

震える足を引きずって、一歩、また一歩と壁に近づいた。
息が詰まる。心臓がうるさい。
壁の端まで来て、ようやく、その正体に気づいた。
壁と、小さな棚の隙間。普段なら絶対に見ないような、埃だらけの奥まった死角に、それが転がっていた。
掌サイズの、黒い物体。そこから、細い赤い光がチカチカと点滅している。
ボイスレコーダーだ。
その隣には、くしゃくしゃになった紙切れが落ちていた。拾い上げてみると、汚れた紙には、拙い字で「夜間点検用」と書かれていた。
ああ、なんだ。
なんだ、こんなことか。
全身から、一気に力が抜けていく。膝がガクガクと震え、その場にへたり込んだ。
なんだ。ただのボイスレコーダー。
壁の文字も、絵も、ただの古い壁紙の染みや、埃と、私の疲れた目、そして美咲への不安が作り出した幻だったのだ。

はあ、と深いため息をつく。
物理的な恐怖は去った。けれど、胸の奥の重苦しさは、少しも晴れない。
再びスマホを取り出し、美咲の番号をタップする。
呼び出し音だけが、虚しく鳴り響く。やっぱり、繋がらない。
「明日の朝になれば、きっと連絡があるわ。大丈夫」
そう自分に言い聞かせる。何度も、何度も。
でも、声が震えている。心のどこかで、本当に大丈夫なのか、と疑っている私がいる。
試着室を出る。外の廊下の蛍光灯の明かりが、やけに白く、目に染みた。
美咲。どこにいるの。
早く、家に帰ってきて。
私の心臓は、まだ不安に打ちのめされたまま、ドクドクと鳴り続けていた。