
くそ、もうダメだ。腹が、腹が、限界だ。さっきから膀胱がビー玉みたいにパンパンに膨れ上がって、今にも弾け飛びそうだ。会社を出る前に済ませておけばよかった、いや、あの時に限って急に湧き上がってきやがるんだから始末が悪い。何でこう、いつもいつも肝心な時に限ってこうなるんだ、俺の体は。
深夜の、人気のない道を急ぎ足で歩いていた。目的は自宅のトイレ、ただそれだけ。なのに、なんでこんな回り道をしているかというと、数日前から気になっていたんだ、ここ、この神社の鳥居のあたりから聞こえてくる、妙な音。
風が強い夜だ。街灯もまばらで、鳥居の向こうは闇に溶け込んでいる。ヒューヒューと風が唸り、木々がざわめく音が、まるで何かが囁いているみたいで気味が悪い。俺の膀胱も内側から悲鳴を上げている。こんな時に限って、好奇心ってやつが頭をもたげるんだから、まったく厄介なもんだ。
「うっ……」
不意に、ポケットの中のスマホが震え、画面がチカチカと点滅した。同時に、微かな「ピー、ピー」という電子音が鳴る。バッテリー残量低下の警告音だ。こんな時に限って、電池切れかよ。最悪だ。
そのスマホの警告音に重なるように、鳥居の奥から、いや、鳥居の脇の暗がりから、低い唸るような音が聞こえてきた。ズズズ……、ゴゴゴ……、と地を這うような鈍い振動音。電気的な、それでいてどこか生物じみた、不気味な響きだ。まさか、あの音、これだったのか?
膀胱がさらに圧迫されて、もう一歩も動きたくない。漏れる。本当に漏れる。冷や汗が背中を伝う。風の音と、スマホの警告音、そしてあの不気味な振動音。まるで、俺が鳥居に近づくのを拒んでいるかのように、音が激しくなり始めた。スマホの画面は点滅を繰り返し、鳥居の奥からは、今度は薄暗い赤色の光が、ポツン、ポツン、と点滅しているのが見えた。
なんだ、あれは?
俺は鳥居をくぐる勇気がなく、その場で立ち尽くした。膀胱の痛みはピークに達し、もう一刻の猶予もない。なのに、足がすくんで動かない。周りを見渡しても、風でざわめく木々ばかりで、あの不気味な音と光の原因が全く見当たらない。闇の中に浮かぶ赤色の点滅が、まるで俺を嘲笑っているかのようだ。
「くそ、何なんだよ、一体……」
全身の毛穴が開きっぱなしで、寒いのに汗が止まらない。頼むから、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ持ってくれ、俺の膀胱。
怖くて動けないまま、どうにか気を落ち着かせようと、俺は鳥居の脇の、一番暗い場所に視線を向けた。石段の陰に、何か大きな塊が隠れているのが見えた。最初は、ただの岩かと思ったんだ。でも、じっと目を凝らすと、それがゆっくりと動いているのが分かった。ズズズ……という低い振動音は、そこから発せられている。
暗闇に目が慣れてきて、その「塊」の輪郭がはっきりしてきた。何かの機械だ。俺は、それが最近設置されたらしい、人感センサー付きの防犯カメラか何かだと思った。夜中に人が通ると、自動で動いて、あの赤いランプが点滅するんだろう。
「なんだ、なんだよ、結局ただの機械かよ……」
安堵と脱力感で、俺はへたり込みそうになった。同時に、膀胱の圧迫感も急に増して、もう本当に限界だ。早く、早く帰って、トイレに……。
だが、よく見ると、それは防犯カメラではなかった。いや、防犯カメラにしては、あまりにも、あまりにも異様な形をしている。そして、その異様な機械は、ゆっくりと、まるで生き物のように、俺に向かって動いているように見えた。
「うわっ!」
思わず、変な声が出た。本当に漏れる寸前だ。もういい、こんなもん、どうでもいい!俺は踵を返そうとした。その時、風が少しだけ収まり、月明かりが雲の切れ間から差し込んだ。
その光の筋が、鳥居の脇の暗がりに落ちた瞬間、俺は目を疑った。そこに鎮座していたのは、人感センサーでも、異様な機械でもなんでもない。
「マッサージチェア……!?」
まさかの物体に、俺は声にならない声を上げた。鳥居の脇、石段の影に半分隠れるようにして置かれていたのは、どっかのリサイクルショップで売ってそうな、やや古びたベージュ色のマッサージチェアだった。あのズズズ……という振動音は、マッサージチェアのモーターが動く音。そして、あの赤い点滅は、動作中のランプだったんだ。
よく見ると、社務所の軒先から伸びた、いかにも仮設といった感じの延長コードが、そのマッサージチェアの裏に繋がっているのが見えた。たぶん、近所のじいさんばあさんが、夜間でも気軽に使えるようにと、神主さんが気を利かせたんだろう。なんて、人情味あふれる話だ。
俺は、その場で全身の力が抜けて、へなへなと笑い声を漏らした。「はは……はははは……」情けない、乾いた笑い声が、夜の神社に響いた。
本当にくだらない勘違いだった。マッサージチェアを人感センサーと間違えるなんて、我ながらどうかしてる。と同時に、安堵と、そして膀胱の限界が、一気に押し寄せてきた。
「くそっ、間に合え……!」
俺は、鳥居の脇のマッサージチェアに一瞥もくれず、全速力で自宅へと駆け出した。今度こそ、今度こそ間に合わせる。頼む、俺の膀胱、もう少しだけ頑張ってくれ!もう、体中が、全身が、ブルブルと震えている。家まで、あと少し。頼む……!頼む……!