夜の図書館、窓に娘の手形。

夜の帳が降りた図書館は、冷え切った石の棺桶みたいだった。閉館時間なんてとっくに過ぎているのに、私はまだ、この薄暗い空間にへばりついていた。家に帰れば、娘の、あの底意地の悪い沈黙が待っている。あの突き刺すような無言の圧力に比べたら、ここにある無音の方が、よっぽどましだ。最近は、ただそれだけの理由でここにいる。

もう何時間も同じページを開いたままだ。文字が、インクの染みみたいに、ただ黒い塊になって目の前を滑っていく。頭の奥がズキズキと痛むのは、たぶん偏頭痛のせいだろう。それとも、ここ数週間、娘とまともに口を利いていないストレスか。あの子が反抗期に入ってから、私の胃はずっとキリキリしている。この前なんて、私の作った夕飯を一口も食べずに部屋に閉じこもった。私の愛情を、ゴミみたいに扱われた気がした。

ふと、外から微かな音がした。
「キィ……カタン……」
まるで錆びた金属が軋むような、タイヤが何か硬いものに擦れるような、そんな不規則な音。風の音にしては、少しだけ重たく響いた気がする。心臓がドクン、と跳ねた。こんな夜更けに、誰かいるのだろうか。まさか、清掃業者? いや、今日は来る日じゃないはず。

ゆっくりと、窓の方へ顔を向ける。薄い月光が、窓ガラスにぼんやりと影を落としていた。
そして、その影の中に、私は見た。
「……っ!」
不自然な、何か。それは、まるで人間の手形のように見えた。五本の指の輪郭、手のひらの丸み。ガラスにべったりと押し付けられたような、おぞましい形。
背筋がゾッとした。こんな夜中に、誰が、なぜ、窓に手を……?
一瞬、娘の小さい頃を思い出した。幼稚園で粘土の手形を作って、得意げに見せてくれたあの頃。あの頃のあの子は、素直で可愛かったのに。いつから、こんなに私の前から遠くなってしまったんだろう。あの手形も、今やどこかに仕舞い込まれて、埃をかぶっているに違いない。私との関係みたいに。

心臓の音が、耳の奥でドクドクと響く。胃のむかつきがひどい。生理前でもないのに、体がこんなに重いなんて。
私は震える手で、本を閉じた。図書館の薄暗い棚が、まるで巨大な墓標のように見えてくる。手形は、依然としてそこにあった。ガラスに吸い付くように。
幽霊? 怪奇現象? 馬鹿な。そんなことを信じる歳でもないし、そんなことを考える余裕も今の私にはない。でも、その恐怖は、日頃のストレスや、娘への不安と混じり合って、まるで真っ黒な泥のように私を飲み込もうとしていた。
誰かいるのか? 足音は? 誰もいない。聞こえるのは、自分の荒い呼吸と、心臓の鼓動だけ。そして、相変わらず窓の外から聞こえる、あの「カタン、キィ…」という不規則な音。それが、まるで私を嘲笑っているかのようだった。

しばらくそうして立ち尽くしていた後、恐る恐る、一歩、また一歩と窓に近づいていく。恐怖で足が鉛のように重い。
窓の際まで来て、ようやくその「手形」の正体が見えた。
窓際の、柱の陰。普段なら目にも留めないような、ちょっとした死角。そこに、放置された一台の自転車があった。薄汚れたサドル、泥だらけのタイヤ。そして、そのフレームとタイヤの影が、月明かりの下で窓ガラスに落ち、歪んで、まるで人間の手のひらのように見えていたのだ。
「……ああ……」
安堵の息が、喉の奥から漏れた。同時に、全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。
さっきから聞こえていた「カタン、キィ」という音も、風にあおられて自転車のチェーンが鳴り、タイヤが窓枠に微かに擦れる音だったのだろう。

そして、その自転車に見覚えがあった。
「娘の……」
そういえば、図書館でバイトを始めたと言っていたっけ。今日が初出勤のはずだった。そして、今日初めて自転車で通ったんだ。私の自転車なんか使いたくない、と、わざわざ友達から借りてきたと言っていた、あの汚れた自転車だ。
なんだ、それだけのことだったのか。馬鹿みたい。
でも。
「なんで、こんなところに放りっぱなしなのよ」
安堵のすぐ後に、またしても不満が湧き上がる。私が図書館にいるのを知っていて、こんなところに置きっぱなしにするなんて。私がどれだけ心配したか、少しも想像しないのか。
でも、ちゃんとバイトに通っているんだ。休んだりせずに。
その事実に、胸の奥で、ほんの少しだけ、温かいものが灯った気がした。
安堵と、怒りと、そしてまた、得体の知れない寂しさが混じり合う。
私は疲れた顔で、薄暗い図書館の窓に映る、自分の影をぼんやりと見つめていた。娘の自転車が、風に吹かれて微かに揺れている。
この複雑な気持ちを、あの子はいつか理解してくれる日が来るのだろうか。それとも、このまま、永遠に分かり合えないままなのだろうか。
私は、乾いた笑みを一つ浮かべ、また一つ、深いため息を吐いた。