
ああ、まただ。この胸の奥底で、得体の知れないものがぎゅっと胃袋を掴むような感覚。深夜の旅館、その中でも特に不気味な「開かずの間」とされているこの部屋に、俺はなぜか閉じ込められている。いや、閉じ込められている、という表現は違うか。ただ、誰もいない。誰も助けに来ない。携帯の電波もロクに入りやしないこの薄暗い空間で、俺は一人、絶叫求救不能の袋小路に追い込まれている。喉はカラカラに乾ききっているのに、水を飲む気力すら湧かない。頭の芯がジンジンと痛むのは、この空気の澱みと、どうにもならない孤独感のせいだろう。
ここ数日、この部屋には何か妙な気配が漂っている。埃っぽい臭いが鼻につく。古い畳からはカビの匂いがするし、壁のシミはまるで人の形に見える。窓の外からは、わずかな月明かりが差し込んでいるが、それがかえって影を濃くし、あらゆるものが不気味な形に歪んで見える。俺は眠れないまま、部屋の中を意味もなく行ったり来たりしていた。足元に転がっているゴミや、積み重ねられた荷物が妙に視界に入り、苛立ちが増す。
その時だ。
窓ガラスの上部で、微かに光が点滅した。まるで、誰かが懐中電灯を当てたかのような、チカッ、チカッと不規則な光。それに合わせて、小さく、しかし妙に耳に響く「コツン」という音がした。
心臓がドクンと嫌な音を立てる。おいおい、マジかよ。こんな時間に。この「開かずの間」で。
「コツン」。
まただ。今度はもう少し強く、硬質な音が響いた。誰かが窓を外から叩いているのか?いや、この部屋は三階だ。こんな高さまで手が届くはずがない。だとしたら、何だ?
薄暗い窓ガラスに、影が浮かび上がった。反射光と、元々あったガラスの汚れ、それに外の闇が重なって、それはまるで人の手形に見えた。指の形まではっきりしないが、確かに手のひらをべったりと押し付けたような、不気味な影。
「う、嘘だろ…」
口から漏れた声は、情けないほどに掠れていた。俺の声は、この部屋の壁と天井に吸い込まれて消えるだけ。誰にも届かない。俺は今、完全に一人ぼっちだ。この恐怖を誰とも共有できない。叫んだところで、誰も助けに来てくれない。むしろ、この不気味な存在に、俺の居場所を教えてしまうだけかもしれない。
光の点滅が続く。「コツン、コツン」という音も、律儀なまでに繰り返される。そのたびに、窓ガラスに浮かぶ手形が、まるで生きているかのように濃くなったり薄くなったりする。
背筋に冷たいものが走った。汗が額から顎へと伝い、シャツが肌に張り付く。胃の奥がむかむかして、吐き気がこみ上げてくる。これは、何か恐ろしい出来事の前触れなんじゃないか?この「開かずの間」に、何か憑りついているとしたら。俺は、その最初の犠牲者になるんじゃないか?
「くそっ……」
俺は膝が震えるのを必死で抑えながら、目を凝らした。窓の外は相変わらずの暗闇だ。何もない。でも、間違いなく、あの手形はそこにある。この閉塞感と孤独感の中で、理性がグラグラと揺らぐ。今すぐこの部屋から逃げ出したい。でも、どこへ?この旅館には、他に誰もいない。
どれくらいの時間、そうしていたのか。神経がすり減り、意識が朦朧としてきた頃、ふと、視界の端に違和感のあるものが入った。窓ばかりに気を取られていたせいで、全く意識していなかった。
部屋の隅、積み上げられた古い座布団や毛布の陰に、それはあった。薄暗くて見えにくかったが、どう見ても不釣り合いな、金属とプラスチックの塊。埃を被り、電源コードが床を這っている。コードの先は、壁のコンセントに無造作に差し込まれていた。そう、それはセルフレジマシンだった。なんでこんなところに?改装工事か何かで、一時的にここに置かれているのだろうか。従業員が夜中にこっそりテストでもしていたのか?いずれにせよ、この異物感は半端じゃない。
俺は半ば呆然と、その機械に近づいた。その瞬間、機械の表面で、チカッと光が点滅した。そして、同時に「コツン」という音がする。
「は…?」
俺は思わず声を漏らした。
よく見ると、商品の投入口になっているトレイが、ゆっくりと動いている。ガタ、とわずかに揺れ、そして定位置に戻る時に、硬質な音がするのだ。そして、そのトレイの金属部分が、窓ガラスに反射して、影を作っていた。ちょうど、人の手形のような、不規則な影を。
電源が切れた後、何かの拍子に再起動を繰り返していたらしい。そのたびに、光が点滅し、トレイがガタつき、窓に映る影が揺れていたのだ。
なんだ、そんなことか。
安堵と、自分自身への激しい苛立ちが同時に押し寄せ、俺は床にへたり込んだ。全身の力が抜け、汗で濡れたシャツが気持ち悪い。この数十分間、俺は何と馬鹿げた恐怖に囚われていたんだ。
「くそっ……」
力なく呟く。このバカらしい勘違いは終わった。だが、俺を取り巻く状況は何も変わらない。深夜の旅館で、たった一人。携帯の電波も届かず、誰にも助けを求められない。この絶望的な孤独と、鉛のように重い身体の疲労は、朝が来るまで続くのだ。胃のむかつきは一向に治まらない。むしろ、この脱力感と、自分への嫌悪感で、さらに酷くなった気がする。
開かずの間の窓に映る、今も変わらない薄汚れた自分の顔を見つめながら、俺は深い溜め息をついた。ああ、早くこの悪夢が終わってくれ。