線香の先に、消えた友の影

クソッ、なんでこんな時間に、こんな場所にいるんだろう。月明かりだけが、窓ガラスの向こうから薄っぺらに差し込んでる。埃っぽい空気。ひんやりした床。閉館後の図書館なんて、マジで気味が悪い。でも、しょうがないじゃん。あいつがいなくなったの、ここが最後なんだから。

夏音が、いなくなった。突然、ぷっつり。スマホも、家にも、どこにもいない。親御さんも、もう憔悴しきってて、警察もなんか「家出の線も」とか言ってて全然本気じゃない。バカじゃないの? 夏音が家出なんてするわけないじゃん。あいつ、そんなタイプじゃないんだから。だから、私が探すしかない。夏音が最後に目撃されたっていうここ、図書館。閉館後なら、もしかしたら何か手がかりがあるかもしれないって、半ば無理やり、職員の目を盗んで入り込んだ。

どこだよ、夏音。どこに行ったんだよ。無事なのか? 誰かに連れて行かれた? それとも、まさか、まさか変な事件に巻き込まれたんじゃ……。胃の奥がキリキリする。もう何日もまともに寝てないし、食欲もない。喉の奥がカラカラに乾いて、唾を飲み込むのも一苦労だ。

静まり返った書架の間を、足音を立てないようにゆっくり歩く。自分の心臓の音だけが、やたらと大きくドクドクと響いてる。鼓膜を直接叩かれてるみたいで、余計に神経が研ぎ澄まされていく。頼むから、夏音、どこかで無事でいてくれ。

その時だ。

ん……? なんか、匂う。
最初は気のせいかと思った。古い本の匂い、カビ臭さ、埃っぽい空気。それらが混ざり合った、図書館独特の匂いの中に、違うものが混じってる気がしたんだ。

線香…?

まさか。こんな場所で。
でも、確かに、微かに、甘くて、どこか懐かしいような、それでいて、ちょっと胸がザワつくような、そんな匂いがしたんだ。

錯覚だ、絶対。疲れてるんだ、私。夏音のことが心配で、頭がおかしくなってるだけだ。だって、線香だよ? こんな場所で線香なんて、ありえないでしょ。

だけど、気のせいじゃなかった。一歩、また一歩と進むたびに、その匂いは確実に、はっきりと強くなっていく。鼻の奥がツンとする。まるで、すぐそこで、誰かが線香を焚いているみたいに。

ゾクッ、と背筋に冷たいものが走った。

夏音、もしかして、何かあったの?
変なこと、考えたくない。でも、この匂い。この状況。
「線香の匂い」って、そういうことじゃんか。
夏音が、ここで、まさか……。

喉が詰まる。唾を飲み込むのも忘れて、呼吸が浅くなる。心臓がバクバクとうるさくて、全身の血が逆流してるみたいに熱い。足が震える。今すぐ逃げ出したい。でも、逃げたら、夏音を見つけられなくなる。手がかりを、見つけられなくなる。

「夏音……」

かすれた声が、静寂に吸い込まれていく。
匂いのする方へ。一歩ずつ、恐る恐る進む。
ここは、普段は立ち入り禁止になっている、古文書を保管している奥まった書庫のエリアだ。天井まで届くような分厚い本棚がずらりと並んでいて、その隙間は真っ暗。月明かりもほとんど届かない。

匂いは、その一番奥から漂ってきてる。
本棚の、さらに裏側。
そこには、埃をかぶった台車が何台も放置されていて、その上に段ボールが山積みにされていた。普段、人が通ることなんてないような、まさに「死角」だ。

まさか。こんなところに。

震える手で、段ボールの山をそっとずらす。
ガタガタ、と音がして、埃が舞い上がる。
暗闇の中、目を凝らす。
そこに、確かに、何かがあった。

古びた、小さな、仏壇。
木の色はくすんでいて、埃と蜘蛛の巣が絡みついている。その前に、小さな香炉が置いてあって、そこから、一本の線香が、静かに煙を上げていた。

「え……」

思わず声が出た。
なんで、こんなところに、仏壇が?
なんで、線香が焚かれてるの?
夏音のことが頭をよぎる。まさか、これ、夏音のため、とか……?

その時、背後から声をかけられた。
「おい、君! こんなところで何してるんだ!」

ビクッと飛び上がった。心臓が喉まで飛び出しそうになった。
振り返ると、そこにいたのは、図書館の夜間清掃員のおじさんだった。手に大きなゴミ袋と、清掃道具を持っている。こんな深夜に、こんな場所で、まさか人に見つかるなんて。

「あ、あの、すみません、その……」
しどろもどろになる私に、おじさんは呆れたような顔で言った。
「まったく、最近の子は好奇心旺盛なんだか何なんだか。まさか、こんなところまで入ってくるとはな。何を探してるんだい?」

私はおじさんを指差して、震える声で尋ねた。
「これ、あの、仏壇、ですよね? なんでこんなところに……。それに、線香……」

おじさんは私の視線を追って、仏壇を見て、ああ、という顔をした。
「これかい? 図書館が建つ前からここに小さな祠があってな。改築の時にここに祀るようになったんだ。昔からの慣習で、夜勤の者がこっそり線香を上げてんだよ。図書館の守り神みたいなもんだね」

守り神。
線香。
夏音のためじゃ、なかった。

私の頭の中で、張り詰めていた糸が、プツン、と切れる音がした。
なんだ、そうだったんだ。
なーんだ。
私は、勝手に、夏音に何かあったんじゃないかって、最悪のシナリオを想像して、一人で震えてただけだったんだ。バカみたい。

急に、全身から力が抜けた。膝がガクガク震えて、今にも座り込みそうになる。
安堵なのか、疲労なのか、それとも自分の思い込みに対する情けなさなのか、よく分からない感情がごちゃ混ぜになって、視界がじんわりと歪む。

「早く帰りなさい。心配なのはわかるが、こんなところにいても何も解決しない。君の友達も、無事だといいな」

おじさんの言葉が、遠くから聞こえる。
夏音。
結局、手がかりなんて何も見つからなかった。
一体どこにいるんだよ。無事なのか?
さっきまで線香の匂いに怯えていたのが嘘みたいに、また、夏音への心配が、ドッと押し寄せてくる。
胃の痛みも、喉の渇きも、足の震えも、何もかも、まだ続いている。
このまま、どこまでも続いていくような気がした。