
吐き気がする。胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。もう何度目か分からない、この神経を逆撫でするような不快感。終着駅の車庫の片隅、冷たいコンクリートの床に敷いた薄っぺらい毛布の上で、俺は体を丸めていた。深夜二時を回ったらしい。シンとした闇の中、油と鉄と埃が混ざったような淀んだ空気が肺を満たす。本当に、なんでこんな場所で一夜を明かさなきゃならねえんだ。急な用事だかなんだか知らねえが、こんなところに放り込まれるなんて、まるで罰ゲームだ。
いつもなら、この時間にはとっくに自分のベッドに潜り込んで、あの忌々しい音から逃れようと必死になっているはずなのに。そう、隣人の騒音だ。壁一枚隔てた向こう側で、奴らは毎晩毎晩、何をやってるのか知らねえが、まるで俺の神経を削り取るように、鈍く重い音を立て続ける。ガタン、ドスン、ギィィ……。あれのせいで、もう何ヶ月もまともに眠れてない。頭の奥が常にズキズキと痛み、耳鳴りがひどい。音に敏感になりすぎて、ちょっとした物音にもビクッと体が跳ねるようになってしまった。今だって、耳の奥でキーンという高い音が鳴り響いている。本当に、気が狂いそうだ。
その時だ。微かな、しかし聞き慣れた、忌々しい音が耳の奥に引っかかった。
ガチャ……、ギッ……、カタン……。
最初は何かの聞き間違いかと思った。しかし、それは間違いなく、不規則で、神経を苛むような金属が擦れる音、そして何かが鈍くぶつかるような響きだった。
くそ、またか。
反射的に体が強張り、脈が速くなる。心臓がドクドクと不快な音を立て、頭の痛みが増した。まさかこんな場所でまで、あの音に追いかけられるのか?いや、そんなはずはねえ。ここは車庫だ。隣人なんているわけがない。なのに、この音は、あの糞野郎が壁の向こうで何かを引っ掻いたり、家具を引きずったりする音にそっくりだった。
俺はゆっくりと身を起こし、周囲を見渡した。暗闇の中、巨大な電車の影がいくつも横たわっている。ひんやりとした空気が肌を撫でる。誰もいない。誰も、いるはずがない。なのに、音は止まらない。いや、むしろ、俺の耳にはさっきよりもはっきりと、より不規則に、そして不愉快に聞こえてくる。
ガチャ、ギッ、カタン……。
神経が、また一つ、ブチッと切れるような感覚。体が熱くなっていくのを感じる。あの時の、怒りと恐怖がない混ぜになった感情が蘇る。壁を叩きつけてやりたい衝動。だが、ここは車庫だ。一体誰が、こんな深夜に、こんな音を?
俺はゆっくりと立ち上がり、窓際に移動した。外は真っ暗で、星すら見えない。しかし、遠くのほうに、ぼんやりとだが蛍光灯の光が見えた。まるで、死んだ魚の目のように白く濁った光。その光の輪郭の向こうで、何か影のようなものが、ゆらりと動いているように見えた。いや、動いてるんだ。確かに、何かが、蠢いている。
まさか……誰か、いるのか?こんな時間に?
頭が真っ白になる。隣人の騒音のせいで、ここ数日まともに飯も食ってねえ。胃の奥はキュッと締め付けられ、吐き気は増すばかり。寝不足と疲労で視神経までおかしくなっているのか、それとも、本当に誰かがいるのか。その影が、まるで意思を持ったかのように、じっとこちらを見つめているようにすら感じられた。幻覚か?いや、幻覚にしては、あの不快な音がリアルすぎる。
ガチャ、ギッ、カタン……。
音は、確実に、俺のいる場所から遠くない、あの蛍光灯の光のあたりから聞こえてくる。恐怖と苛立ちがピークに達した。こんなところでじっとしてられるか。俺は音の発生源を探るため、車庫の奥へと足を踏み出した。
一歩、また一歩。俺の足音が、シンとした車庫にやけに大きく響く。自分の呼吸すら、耳障りに感じられる。あの隣人の騒音のせいで、俺はもう自分自身すら信じられなくなっていた。どこから音がするのか、どこに奴らが潜んでいるのか。その疑心暗鬼が、俺をこんな真夜中の車庫で、幽霊でも探すかのようにうろつかせている。
そして、ついにその音源は特定された。車庫の片隅、壁際にある、古びた金属製の扉。そこから、あの不規則な、鈍い金属音が響いていたのだ。
ガチャ、ギッ、カタン……。
俺は扉に近づいた。そのすぐ手前には、配管工事で使うらしい塩ビ管や、スパナやレンチといった工具類が、まるで投げ散らかしたように雑然と積み上げられていた。その工事の残骸が、扉の前に山を築いている。
「……これかよ」
思わず声が漏れた。扉は、その積み上げられた資材に完全に塞がれていて、開かないようだった。そして、よく見ると、扉の取っ手が少し緩んでいるのか、あるいは扉自体が歪んでいるのか、わずかな振動や気流で、その蝶番やノブが、枠に当たって不規則に音を立てているようだった。あの忌々しいガチャガチャ音の正体は、これだったのだ。
そして、遠くでぼんやりと見えていた蛍光灯の光。それは、まさにこの扉の真上、天井から吊り下げられた工事用の仮設照明だった。作業員が消し忘れたのだろう。その薄暗い光が、散らばった工具やパイプの影を不気味に浮かび上がらせ、俺の疲弊しきった神経をさらに刺激していただけだったのだ。
「ったく……」
全身の力が抜けていく。こんな、たったこれだけの、単純な仕掛けに、俺はこれほどまでに神経をすり減らしていたのか。安堵と同時に、言いようのない虚しさが込み上げてくる。そして、またあの憎むべき隣人の顔が脳裏に浮かんだ。もし、俺がもっとまともに眠れていたら。もっと心が穏やかだったら。こんな簡単なこと、すぐに気づけたはずだ。
結局、俺のこの神経質な苛立ちは、全部あいつらのせいだ。あの騒音のせいで、俺はもう、まともな判断力すら失っている。夜明けまで、まだ数時間はありそうだ。この扉の音は、もう気にならない。しかし、俺の耳の奥では、相変わらずキーンという耳鳴りが鳴り響き、そして、まるで隣人が壁を叩いているかのように、心臓が不快なリズムでドクンドクンと全身に響いていた。ああ、本当に、気が狂いそうだ。早く、この悪夢が終わってくれ。